スズキ会長兼社長 鈴木 修 1930年生まれ。中央大学法学部卒。中央相互銀行を経て、58年鈴木自動車工業入社。67年常務、73年専務を経て、78年社長。2000年会長就任。08年から社長兼務。

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「現場第一」「ハート・ツー・ハート」が修流。それは世界中どこでも変わらない。その眼は現場で何を見ているのか、どうやって人を引きつけるのか。最後のカリスマ、鈴木修の背中を追った。

「これは、参ったなぁ……」

鈴木修は、心の中で呟く。搭乗開始のアナウンスが流れ日航機のB777に乗り込んだところ、隣のシートには若い女性が座っているではないか。成田からバンコクまで、飛行時間はおよそ7時間。できることなら、快適に過ごしたい。マナーの悪い若者が多いだけに、大丈夫だろうか、と心配になる。

この日も、鈴木修は長い旅の途中にいた。1930年1月生まれだから、現在は82歳。自動車業界では“最後のカリスマ”として知られる会長兼社長だが、忍者のようにフットワークは軽い。36歳で米国に駐在するなど、若い頃から浜松市を拠点に国内と世界を渡り歩き、旅を栖すみかとしてきた経営者である。

前日は、東京で中間期(4〜9月)の決算会見に臨んだ。米市場からの四輪事業の撤退、反日で揺れた中国問題、インド、TPP、為替、国内軽自動車市場などなど、記者団からの質問に素早いリズムで回答していく。ときにはユーモラスに、ときには厳しい口調で。

78年6月に社長に就任してから、何百回と重ねられてきた記者会見の光景である。この経営者が会見で言い淀む姿を、目撃した人はまずいないのではないか。

鈴木修はいつもの“修節”を奏でながらも、いくつかの重要なことを発信した。

「輸出立国としての日本は、やがてなくなっていくだろうと私は思っています。これからは現地でコツコツつくっていく地産地消でやっていきます。日本人も現地に行って一緒に作業をやる時代になり、地産地消は進むでしょう。3月から生産が始まったタイの新工場には170人ほど、日本の工場から指導者と作業者を送り込んでいます」「国内で雇用を確保するより、グローバルで確保していくのです。こうなっていくと、故郷(ふるさと)という感覚はなくなるんじゃないでしょうか」

■人を見たら、泥棒だと思いなさい

高度1万1000メートルを超える機中。隣の若い女性は、入国審査カードを何回も書き直している。3回目のチャレンジが失敗したとき、鈴木修はついに声をかけた。「どうしたの、大丈夫?」と。戦前生まれの日本人の特徴かもしれない。困っている人に対して、何もせずにはいられないのである。

女性は堰を切ったように、自ら話し始めた。今回が初めての海外渡航であり、東南アジアを中心に数カ月間1人旅をする計画であること、宮城県で看護師をしていて、20代前半であること……。

「ご両親は、(今回の旅行について)何も言わなかったの?」「いってらっしゃい、だけです」「エッ! そうなの……」

鈴木修は軽い衝撃を覚えた。若い日本人女性が、海外で凶悪事件に巻き込まれるケースは後を絶たない。今夏も、女子大生がルーマニアで殺害されたばかりじゃないか。親はあっけらかんとしすぎている、と鈴木修には思えた。「こんなに大きく育てたのに、何かあったらどうするのか」と思いを巡らせる。

一方で、「最近の若者は1人で行動する。俺たちの世代はみな臆病だった。国内でさえ『一緒に行こうや』と連れだったのに」という、変な感心も抱いていた。

鈴木家では、子や孫に留学やホームステイをさせている。ただし、鈴木修は筆者に「男の子だけな。女の子はそうはいかんのだよ」と、本音を吐露している。反論する人はいるだろうが、男親の気持ちが滲む。

カードへの記入を手伝い終えると、さりげなく助言する。「人を見たら、泥棒だと思いなさい。慎重の上にも慎重でなければ、いけませんよ。とにかく、気をつけてね」。世界中を駆け回ってきた老経営者は、初めて会う女性に言葉を贈った。「ハイ、気をつけます」。

自称「中小企業のおやじ」である鈴木修は、威張らない。合理主義者だが、あくまで気さくである。多くの取り巻きを従えることもなく、現地まで1人で移動してしまう。社長に就任した48歳のときも、いまもだ。このため、機中で予期せぬふれあいがあり、新たな発見や気づきを得る。

若い看護師はおやじさんを、連結売上高が約2兆6000億円(2013年3月期見込み)、年間販売台数(同)は二輪車が約260万台、四輪車が約275万台を誇る会社のトップであることなど知る由もない。

スワンナプーム国際空港から市内中心部まで、渋滞には巻き込まれなかった。土曜日のせいかもしれない。宿泊するSホテルの2階ロビーには、背広を着たSPが10人ほど所在なさげに屯している。チャオプラヤ川を望むこのホテルに、李明博韓国大統領が宿泊しているためだった。フロアでは、少人数のバンドがクラシックジャズを演奏している。

スズキはこれまで、他社に先駆けて海外市場に進出してきた。パキスタン、インド、ハンガリー、インドネシア、中国、ロシア。結果や成果はともかく、先んじて出るのがスズキ流である。ところが、タイに関しては国内メーカーでは最後発の工場進出となった。

「インドに続く2番目の柱として、既存のインドネシア工場(四輪生産は76年から)と新設のタイ工場があるのです。関税がかからないため、相互に車種をやり取りします」

と、鈴木修は12年8月、浜松本社で話していた。だが、今回タイで「インドネシアだけで生産するのもリスクを伴う。何かあったときに、心配なんだよ。だから、乗用車だけはタイでもつくろうと考えたんだ」と囁いていた。

■現場に入ると人が変わる

翌朝、午前9時前。バンコク市内の西部にある四輪車および二輪車の販売店「スズキ ラマII」。67年からスズキの二輪販売代理店を務めてきたバンスズキが建設した新店舗である。3月から営業を始めているが、この日は鈴木修を招いてオープニングセレモニーが開かれた。

鈴木修は、マイクロバスに乗ってスズキの幹部たちと一緒にやってきた。ドアが開き、真っ先に降り立つ。好みの色である黒の上下に、クールビズである。

バンスズキのブンロート・ラパロキット会長、その子息でもあるマヌーサク・ラパロキット社長らが出迎える。通訳を介し何か面白いことを言ったのだろう、鈴木修を中心に笑いが輪になって弾けた。

駐車場の式典会場。特設テントの中央席に鈴木修は着座する。しばらくは、タイ人関係者たちの挨拶に応じていたが、日本人スタッフに何かを持ってくるよう指示をした。ネクタイである。式典が始まる直前、鈴木修は座ったまま黒い背広を脱ぎ、シャツの襟を上げてタイを結び始めた。やや、照れくさそうにだ。するとどうだろう、タイの列席者の間から、柔らかな笑いが湧いた。

ちなみに、筆者はかつて鈴木修が新幹線のグリーン車内で着替えをするのを見たことがある。ネクタイを外し堂々とワイシャツを脱いだ。上品そうなご婦人が横目遣いに通り過ぎ、こちらが心配になるくらいだったが、何となく許されてしまう不思議なキャラクターである。

さぁ、いよいよ式が始まる。鈴木修はマイクの前に立つ。

「ブンロートさんのファミリーとはオートバイのディーラーをしていただき、もう45年のお付き合い」「3月から販売を始めた四輪は月平均で40台を販売していただき、バックオーダーを700台も抱える好成績をあげていらっしゃる」

「車の問題や情報は、直接メーカーにお知らせを。どうかひとつ、これからもスズキの一翼を担っていただきたい……」

バンスズキ側からも挨拶があり、記念品をやり取りし、地元の民族舞踊だろうか太鼓演奏があって、駐車場のセレモニーはお開きとなる。

建屋面積が約1100平方メートルのショールームに入っていき、同社の女性スタッフ1人ひとりと握手を交わす。

ここまでならば、他の経営者とそう変わらないだろう。が、現場に入った瞬間から、鈴木修は人が変わっていく。

眼が笑わなくなるのだ。ジョークは消え、記者団のカメラの放列などへの意識も消えていく。現場に集中し、細部にまでとことん注意を払うのだ。こうなるともう、質問など投げかけられる雰囲気ではなくなってしまう。気持ちが入り込んでいて、眼は決して笑わない。

この笑わない眼が、世界中のスズキで働く5万5574人の社員、さらにはサプライヤーや販売会社などを合わせれば10万人以上を支えているように、筆者には思えてならない。

ショールームに展示されたタイ工場製のスイフトの前で歩みを止めると、静かに後部ドアを開ける。音や塗装の仕上がり具合を観察しているようだったが、さらに店舗の奥のバックヤードへと入った。

倉庫で作業していた女性は、総帥の突然の出現に驚いた様子を隠さない。だが、鈴木修はお構いなしに指摘していく。

「ここに棚を置きなさい。ただし、窓から(整備)工場が見渡せるように、目の位置にはモノを置かないように」「小さなスペースでも、有効に使いなさい」「おい、ハンカチ落としたぞ!」……

工場をチェックした後は、再び屋外へ。すでに太陽は高くなり、気温は30度近くに上昇。何より湿度が70%を超え、ひたすら蒸し暑い。敷地の端までくると、隣接地は葦が茂る湿原だった。

マヌーサク社長が「実は将来、ボディーペイントの施設をここに建てようと考えています。タイでは、車をペイントするのが流行ってますから」と打ち明ける。鈴木修は「ならばここに木を植えなさい。そうすると土が増える。(二輪工場の)タイスズキもそうしたから」と、間髪を入れずに助言する。引き出しがすぐに開く、そのスピードは82歳には思えない。

記念植樹、ユーザーへの納車式、記念撮影などを矢継ぎ早にこなし、休憩時には好物のドリアンを頬張ってようやく一息入れる。

ショールームで説明員をする若い女性スタッフは、鈴木修について言う。

「気さくで優しそうです。えっ、82歳! 60代に見えます」

この後も会見があり、バンスズキ関係者との記念撮影があり、スタッフに見送られてマイクロバスに乗り込み、次の目的地へと移動していった。鈴木修が去ると、祭りの御輿が下ろされたような静けさが、ショールームに訪れた。Sホテルに帰還したのは夕方になってからだった。

さて、筆者が鈴木修に同行して海外の現場を回るのは、07年2月に訪れたインドに次いで、今回は2回目だ。インドの販売店では、「整備工場の作業工程を直線にせよ」「電灯をもっと下げろ」「顧客管理にパソコンを使え」「内部留保をして、いつでも設備投資できるよう備えよ」「一流メーカーがインドに入ってきた。シェア1位だから自分たちは強いと考えたときから、終わりは始まる」などと、鬼のように厳しかった。

このときと比べると、タイの販売現場では優しい接し方である。鈴木修は「マヌーサク社長をはじめ、優秀で高学歴者が多いんだ」などと打ち明ける。シェア1位のインドと、最後発でこれからのタイとでは、接し方を敢えて変えているようにも見える。もちろん、市場規模や影響度の違いもあってのことだろうが。

夜半、記者団との会見と食事会に臨む。

「(夏に暴動が発生したインドの)マルチにこの間行ってきた。96人がケガをして、3人は骨折をした。インドは保険が小さいので、会社が全額彼らの医療費を支払った。そして僕は、生産再開で出社した93人全員と握手をしたんだ。『頑張ってくれ』とね。にっこり笑う者もいれば、下を向く者もおったよ」といったビジネスの話から、自身の健康管理に至るまで、話は多方面に及びテーブルでは時折笑いが起きた。

滞在3日目は、朝から雨模様。バンコクから車で2時間は要するタイ東南部のラヨーン県にある工場の開所式に鈴木修の姿があった。日本の販売関係者約380人も招かれていた。「(16年をメドに)なるべく早く年10万台の生産にもっていきたい。建設工事もまだやっていますが、中小企業のやりくりをご理解いただければと」などと挨拶した。

新工場ではタイ人と日本人とが一緒に働いている。ヘルメットに、「J」とあるのが日本人。また、青ヘルメットは班長や組長の幹部が、黄色は一般のワーカーが被る。黄色の「J」ヘルメットも、けっこう多いし、検査工程では女性も男性と一緒にたくさん働いている。

いつもの工場監査のように、鈴木修は工程へと歩を進めていった。それはまた、タイの現地生産という新たな挑戦に向けて、笑わない鈴木修になる瞬間だった。

(文中敬称略)

※すべて雑誌掲載当時

(ジャーナリスト 永井 隆=文・撮影)