横浜市長 林 文子 東京都生まれ。ファーレン東京(フォルクスワーゲン東京)社長、BMW東京社長、ダイエー会長兼CEO、東京日産自動車販売社長などを歴任。2009年8月、横浜市長に就任。『不思議なほど仕事がうまくいく「もう一言」の極意』など著書多数。

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ホンダ車のセールスから実質的なビジネスキャリアをスタートさせた林文子さん。ライバルとの販売台数競争に勝つために夜中の12時近くでも買い替え時期の顧客の家にセールスに行ったというような“武勇伝”には事欠かない。しかしここで注目すべきなのは、林さんが、夜中に訪問しても嫌な顔をされないほど「共感と信頼」ができる関係を顧客との間に築いていたということだ。

「私は今、横浜市政を担当させていただいて、この12月に中期4カ年計画をまとめるんですが(※雑誌掲載当時)、サブタイトルを『市民と歩む「共感と信頼」の市政』としたんです。人と人の間で共感と信頼を築くために行うのが気配りだと思うんです。民間の経営も、行政も、人と人との共感と信頼がなければいい仕事はできません」

ホンダからBMWへ転身し支店長となり、さらに数社の社長職を経験し、ダイエーの会長兼CEOに就任した。どんな職種、地位に就いても、林さんは「共感できて信頼できる人間関係をつくること」を通じて成果を出してきた。

「それが私の信念なので、結果的には新しい職場の人たちとわかり合えたのだと思います。市長は選挙で選ばれてポンと入ってきちゃうので、職員の皆さんは私がどんな人間なのかわからない。それでも市民に選ばれた市長なので、彼女の言うことには従おうと動いてくれます。でもそんな義務感で働いてもらうのではなく、市民の皆さんの幸せのために一緒にやっていくという気持ちになってもらう必要があります」

そこで林さんは職員にまずは「自分」を知ってもらうことから始めた。ダイエー再建時に各店舗を回ったように、横浜市の施設や職場をそれぞれ訪問して職員と話をした。

「市長といえども完璧な人間ではないのですから、これはわからない、だから教えてくださいねという気持ちを持つべきです。私はわからないことはわからないと言うし、助けてもらったら本心から部下の方々に『ありがとうございます』とお礼を言う。ところがリーダーシップを取る人は完璧でなくてはならないと思い込み、弱みは見せられないと虚勢を張りがちなんです」

ではどうすれば人を動かす心配りができるのだろう。

「まず相手が何を望んでいるか考えて実行することです。でも多くの方がそれをやらない。挨拶1つしない方が多いです。だから気配りの第1歩は丁寧で誠実な挨拶をして、お会いできてうれしいという気持ちを伝えることから始めてはどうでしょう。挨拶をするとき、相手が喜ぶ話題を振ったほうがいいといった営業スキルのようなものは確かにありますが、それ以前の部分にきちんと取り組むほうが大切だと思うんです」

第1歩を踏み出した後、さらに力をつけるためには、「若い方なら本を読み、人と会って、自分を磨くことをおすすめします。本当の気配りは人間性からにじみ出てくるものだから」。

そうアドバイスを受けてもなかなか実行に移せない人がいるかもしれない。1日100軒の顧客の家を回った林さんは、なぜそのような行動力を身につけることができたのだろうか。

「無理に人に会うという姿勢では苦しいだけだと思います。お互いの出会いを享受するというか、出会いを楽しむという姿勢で臨めるといいですね。周囲の人に対して心を配るというのは本当はとても楽しいことです。だから相手の方に喜んでもらったら、喜んでもらえたことをうんとかみしめていただきたい。よかった、よかった、今日、喜んでもらえたと反芻してください。それがとても大事です。相手のために一方的に尽くしても続きません。双方が幸せになることが必要です。そこで私は『おもてなし』の気持ちが大切だと思うのです」

2009年9月1日、横浜市役所に初登庁した新市長は「おもてなしの精神で行政サービスを行っていきたい」と、やや緊張した面持ちで抱負を語った。1年が経過した今、市役所におもてなし精神が浸透してきた。

「お稽古事は、いくら練習してもなかなかできない時期があります。ですが、もうだめだと思っても練習を続けていると、ある日、ポンとできてしまう。それとよく似ていて、1年が経って氷解するように、フッと職員の皆さんの心が開いてくれました。市民の皆さんからは市役所の空気が変わったという声をいただきました」

気配りの気持ちは、人々の心を動かす力を持っている。

※すべて雑誌掲載当時

(山本信幸=文 大沢尚芳=撮影)