12月に行われた気仙沼港のライトアップ(撮影=男乕美歩)。

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■母校が消える

気仙沼女子高2年生の小松優果さん。アルバイト先は市内の貸衣装屋だ。

「子どもの七五三から、卒業式、結婚式のドレス、喪服まで、お客さんもいろんな人、年齢問わず来ます。気仙沼、貸衣装屋が少なくて、みんな『卒業式に袴とか借りるならそこだよね』っていうくらい。わたしも小学校の卒業式にそこで借りたんです。そこでたまたまバイトの募集があって、滅多にできることじゃないなと思って。こんどの2月でそろそろ1年になります。時給700円です。楽しいですよ。お客さまの一生に一度の結婚式のドレス選びとかして。それを高校生のわたしが一緒に考えたりするわけで。着物のたたみ方とか、ふつうの高校生は絶対体験できないじゃないですか。毎回バイトに行くたび、いろんなことを学べて、刺激を受けてます」

将来仕事に就くために、どんなことを知りたいですか。この問いへの答えも、アルバイトの話とつながった。

「何だろう……何がいちばん自分に合っているのかという情報が欲しいかな……。今、せっかくいいバイトしてるから、そういうのを活かせたらとは思います。外国人に着物を着せるとか、そういうのとかも活かせるかもしれないし。お店にはたまに外人さんも来るんです。旦那さんが日本人で、奥さんが外国人。奥さんにドレスを着せるんですけど、なんか合わない。そういうときにお店の着物を着てみてもらったら『着物、いいね』とか言われて。着物を外人さんに似合うようにどう着せたらいいかと考えるの楽しいです。そういうときに『いい着物があるんですよ』っていう情報をどう発信していけばいいのか、そういうことも知りたいです。あと、自分、今、琴やってて。けっこう本格的なんですよ。琴やって、着物の扱いもしてて、おかんが鮨屋やってた。なんか日本チックなかんじだし、ぜんぶ、けっこう好きだし」

合州国に初めて行った。カリフォルニアロールを食べた。魚の町で生まれ育った小松さんは、もっとおいしい魚を自分が知っていることにあらためて気づく。着物に触れるアルバイトも続けている。日本のおいしいもの、いいものを海外の人に知らせることを、仕事にできないだろうか。もともと、海外で暮らしたいと思っていたし、英語も好きだ。合州国での3週間というスパイスを得たことで、港町での体験が将来に活きる予感が生まれはじめている。

その港町で、高校がひとつ消える。小松さんが通う気仙沼女子高は2013年度末で閉校となる。

《気仙沼市の学校法人・畠山学園(畠山享子理事長)は、気仙沼女子高校(同市入沢)を2014年3月で閉校する方針を明らかにした。少子化で定員割れが続いていたところに東日本大震災の追い打ちを受けた。(中略)県教委によると、気仙沼市と南三陸町では5月現在、中学2年生が計53人、3年生が計54人、それぞれ1年間で減った。村上校長は「復旧・復興には相当の歳月がかかり、学校を取り巻く環境は厳しい。学校を維持することは困難」と説明した》(「朝日新聞」2011年8月5日朝刊)

最後の卒業生となる小松さんは、その経験もプラスに考えている。

「いきなりの報告で、はじめはまったく意味が分かりませんでしたね(笑)。今年、先輩方が卒業すると、来年から全校生徒が18人になり、行事などもだいぶ減るんですよ。高校卒業してすぐ自分たちの母校がなくなるのは残念ですが、だれでもできる経験ではないし、歴代の先輩方がいろんな思いで通った学校の最後を自分達で締めくくれるなんて、少し誇らしいです」

高台から気仙沼漁港を見下ろす同校校舎には、この10月にコールセンター運営会社のDIOジャパン(本社・愛媛県松山市)が気仙沼コールセンターを設立し、50人規模の雇用支援事業を始めている。2011(平成23)年度末時点での気仙沼市の求職者数は4041人、求人倍率は0.63。被災前の時点でも、気仙沼市の失業率は8%と高かった。この町で、新しい仕事を興そうとしている父を見ている高校生がいる。

■ぐらぐらした夢だけがあって

男乕美歩(おのとら・みほ)さんは、小松さんの1年先輩、気仙沼女子高(英進コース)3年生。震災前は「ぐらぐらした夢だけがあって」と語る。まず、その夢の話を聞かせてください。

「震災前はほんとに迷ってて。わたしは唐桑(からくわ)というところに住んでいるんですけど、そこは大唐桑(おおからくわ)の木というのがあって、その木の葉を使って、お祖母ちゃんがお茶をつくっているんです。それを産業にできないかみたいなことを父がやってるんです。父は車の部品をつくる工場をやっているんですけど、お父さんはなんでも屋さんで、商工会の理事とか消防団とか松圃虎舞(まつばたけとらまい)保存会で太鼓の指導もやってます」

《昔々、唐や宋との交易があったころ、珍しい文物を積んだ船団が暴風雨に遭って漂着した。その中に、唐の木である桑があった。それが次第に増えて、養蚕が盛んになったという。それで、唐桑と呼ぶようになったとの地名伝説がある》(太宰幸子著『みやぎ地名の旅』河北新報出版センター、2011年刊)

旧唐桑町は2006(平成18)年に、気仙沼市と合併している。2009(平成21)年には南に隣接する本吉町も編入され、現在の気仙沼市となった。お父さんが携わる松圃虎舞は、唐桑町の御崎神社例祭に航海安全・大漁祈願として奉納される気仙沼市の無形民俗文化財。15メートルの長い梯子を登る虎の演舞で知られている。陸前高田市の広田町など、気仙は虎舞が盛んな地域でもある。大唐桑茶の話を男乕さんに続けてもらおう。

「大唐桑の葉っぱを使ってお茶をつくって、今、実際に売ってるんです。東北大学の教授だか誰かに調べてもらったんですけど、疲労回復とか高血圧とか目とかにいいんですよ。で、こっちだけじゃたぶんあんまり売れないんで、仙台にお店をつくって唐桑の特産品として売っていこうと。仙台で父の姉妹が塾やってたりエアロビクスのスタジオとかやってて、そういうとこと組んで」

男乕家は、事業のバイタリティが強い家なのですか。

「たぶん(笑)。60何歳かでもう亡くなったんですけど、祖父が市議会議員で、いろいろやってました。今、父がやっている自動車部品の工場も、たぶん祖父が『今は車の時代だ』って始めてるんですよ。なんか30年くらい先取りする人だったみたいで、父がまだちっちゃい頃に、ソーラーパネルを家に設置したりとか。わたしには、いろんなところに連れていってくれたり、いつもパチンコをしてたイメージしかないお祖父ちゃんなんですけど(笑)。わたしが小学校に上がる直前、ちょうど3月11日に亡くなりました」

男乕さんは、特産品の大唐桑を活かした仕事ができないかと、いちど考えた。

「お茶だけじゃなくて、桑の実を使ったジャムとかもあって。それを使ったお菓子もつくれるんです。なので、パティシエになって大唐桑を広めることもできるかなと思ってたんですけど。でもそれは、とてもぐらぐらした夢で。自分がやりたいことが、まだぜんぜんわからなかったので、ほんとうにこれに就きたいのかって言われたら、違うなあと思いながらぐらぐらしてて。でも震災後、人のために役立つ仕事に就きたいってことがはっきりしたので、今は気持ち的には安定しています」

男乕さんの気持ちを安定させた「将来やりたい仕事」は、何か。

(明日に続く)

(文=オンライン編集部・石井伸介)