【宙にあこがれて】第29回 YS-11の半世紀

今年、2012年は戦後初の国産旅客機YS-11の初飛行から50年という記念すべき年でした。ですが日本の航空会社から姿を消していることもあってか、航空ファンの間では、ちょっと取り上げられ方が地味だったような気がします。今回はこの「YS-11の50周年」について、少々書いていきたいと思います。

【関連:第28回 零戦、最後の里帰り】
 
戦後、GHQにより航空産業(研究・設計・製造・運航など)が全面禁止されていましたが、1956(昭和31)年にそれが解除されると、政府は航空産業の復活を模索し、ちょうど老朽化しつつあったダグラスDC-3(国産化した零式輸送機も含む)を置き換える目的で「中型輸送機の国産化」を構想します。

翌年、戦前から航空機製造に携わる会社が参画した財団法人「輸送機設計研究協会」が発足し、機体の構想が練られます。戦前からの名技術者であった、木村秀政(東京帝国大学で航研機などを設計)、堀越二郎(三菱で九六艦戦、零戦、雷電などを設計)、土井武夫(川崎で飛燕などを設計)、太田稔(中島で隼などを設計)、菊原静男(川西で二式大艇、紫電、紫電改などを設計)が顔を揃え、機体の概略を方向付けました。新聞などでは、彼らを「5人のサムライ」と呼んでいたことが知られています。この5人のうち、木村・堀越・土井は東京帝大工学部航空学科の同期生(第5回生)。卒業した7人の同期生のうち堀越が首席でしたが、この期が優秀だったことがうかがえますね。

余談ですが、この輸送機設計研究協会には、海軍の航空技術厰(空技廠)で彗星や銀河を設計した山名正夫(当時東大教授)が構造強度小委員会の委員長として、そして陸軍の九七式戦闘機に携わった佐貫亦男(当時東大教授)が計器小委員会の委員長として参加していました。基礎研究が主で、設計には携わらなかったものの、5人のサムライ以外にも優秀な技術者・研究者が多数参加していたことを明記しておきます。

「YS-11」の型番もその時決定されますが、それは「輸送機設計(Yusouki Sekkei)」の頭文字であるYSと、エンジン第1案、機体仕様第1案を組み合わせたものでした。ですから正式には「わいえす・いちいち」と呼称するものだったようですが、後に作られたセールス目的の公式記録映画『YS-11 その優れた性能』では「わいえす・じゅういち」もしくは「ワイエス・イレブン」とナレーションされているので、途中で「こまけぇこたぁいいんだよ!!」ということになったようですね。零戦(零式艦上戦闘機)も、正式には「れいせん」ですが、現場などでは「ゼロせん」と呼んでましたから、通じればいいという考えかもしれません。

検討された機体仕様案の中には、現代のボンバルディエDHC-8のような高翼(肩翼)配置のものもありました。結局は、位置が低くなるので主翼やエンジンの整備がしやすいのと、非常時での滑空性の良さ(胴体下部も翼として使える)、不時着水した場合に翼(内部は空洞)をフロートにして胴体が浮かびやすい、というのが低翼配置になった決め手だったようです。

没案となった高翼の風洞実験模型

機体の概略が決定し、YS-11プロジェクトは本格的に始動しました。1959(昭和34)年、輸送機設計研究協会は発展的解消をし、新たに実機の設計・製造を行う半官半民の特殊法人、日本航空機製造(日航製・NAMC)が設立されます。次世代の航空技術者を養成する為「5人のサムライ」は一線を退き、新たに堀越の下で零戦などの設計に携わっていた、三菱の東條輝雄(東條英機元首相の次男)を中心としたチームが実機の設計を手がけることになりました。

ところが戦後14年が経過しており、設計チームの若手は設計はおろか、飛行機に乗ったことのない者も多くいました。基本的に戦時中、民間の旅客機は日本の空を飛んでいませんでしたから、当たり前と言えば当たり前です。そんな状態で、日本では実用化されていない、客室が予圧された飛行機(一部の試作高高度戦闘機が、カプセル式予圧操縦席の設計を持っていたのみ)を作る訳です。作業は手探りでした。

機体の強度に関しては、余裕を大きくとりすぎてしまい、強度試験で目標とする数値を軽くクリアしただけでなく、最終的に試験装置の方が壊れるというオチがつくほど。実質的な世界標準であるアメリカ連邦航空局(FAA)の基準をクリアするという条件はあるものの、今まで限界性能を追求する軍用機ばかり作っていた反動で、どれだけのラインを目指すか……という「ちょうどいい加減」が難しかったようです。さらに油圧での操縦系統が採用できず、操縦桿につながったワイヤーで直接舵を動かす、昔ながらの「人力操縦」で設計せざるを得ませんでした。

それでも1962(昭和37)年8月30日、試作1号機が名古屋空港でついに初飛行に成功します。しかし、プロペラ後流の影響で機体が右を向く、横(ロール)安定性の不足、舵の効きが悪い(舵が重い)など、後に「三舵問題」と呼ばれる不具合が発覚し、航空機として安全に運航できるか審査する、耐空性審査でハネられてしまうのでした。

機体を再設計するとなると、時間がかかるし機体も再度作り直す為に予算も膨らみます。そこで土井武夫が、自身が設計した陸軍の試作戦闘機キ-5の経験から、主翼の上反角(上へはね上がる角度)の2度増加、そして手っ取り早く改修する為に、主翼付け根にクサビ状の部品を挟んで調整する……という、横安定性向上の手法をアドバイスします。……この改修の影響で、主翼(エンジンナセル)に取り付けられていた主脚は、わずかに八の字を描くことになりました。

機体の右偏向は、エンジンナセル後方に俗に「三味線バチ」と呼ばれる整流板を取り付け、舵の効きについては、タブ(舵の重さを軽減する機構)を旧来のバランス・タブから、幅広い速度域に対応できるスプリング・タブに変更することによって解決することができました。これにより1964(昭和39)年8月25日、ようやく耐空性審査にパスし運輸省の形式証明が交付されたのです。

東京・上野の国立科学博物館に展示されているYS-11の風洞模型は、改修部分に別の木材が使われている為に、どのように改修されたかがよく判ります。

改修されたYS-11の風洞実験模型

さて、1964年といえば東京オリンピック。形式証明を取ったばかりのYS-11も一役買いました。全日空が試作2号機(JA8612)を借り受け、9月から全国を回る予定の聖火リレー(鹿児島・宮崎・札幌がスタート地点)において、那覇〜鹿児島〜宮崎〜(途中小牧で給油)〜千歳を結ぶ聖火輸送に使用したのです。全日空ではこれにちなみ、YS-11の愛称を「オリンピア」としました。ちなみに借り受けた試作2号機ですが、聖火リレー後にメーカーであるNAMCに返却され、その後日本国内航空(日本航空に合併された日本エアシステムの前身。略称JDA)の機体となります。こちらでもその実績から「聖火号」と名付けられ、親しまれました。

YS-11をオリンピアとした全日空の時刻表

このような経緯を経て、国内の航空会社や官公庁だけでなく、4割近くは海外にも販売されたYS-11ですが、結局製造数は182機で終了してしまいました。半官半民、しかも責任の所在があいまいになりやすい寄り合い所帯という事情も影響したようです。機体を開発するまでは良かったものの、旅客機を販売する経験がなかったので、重要なアフターサービスなどで不手際があったりして、特に海外セールスにおいて致命的でした。コスト意識も甘く、海外販売分では度を超した割引も強いられたりして赤字も膨らみ、1974(昭和49)年2月、海上自衛隊に引き渡された機体(製造番号2181。最終の2182は前年に完成・引き渡し)を最後にYS-11は製造を終了。NAMCはアフターサービスを継続していましたが、1983(昭和53)年3月に業務を三菱重工に譲渡した上、解散することになったのです。

YS-11の特徴といえば、第一にそのエンジン音が挙げられます。搭載されたロールスロイス製のターボプロップエンジン、ダートから発せられる特徴的な甲高い音は、ファンから「ダートサウンド」と呼ばれ、愛されました。

▼動画:YS-11FCのダートサウンド
http://www.nicovideo.jp/watch/1356674777

国内では、2007年からのTCAS(空中衝突防止装置)義務づけに対応しない(費用対効果の関係で改修が見送られた)為に、2006年に航空路線から引退。国土交通省航空局で使われていた機体も同年に引退しました。海上保安庁では捜索救難機として運用されていたのですが、こちらも2011年に引退。現在は、TCASの義務づけから除外されている航空自衛隊と海上自衛隊のみで運用されています。

国土交通省航空局の機体海上保安庁の機体

といっても、海上自衛隊では機上作業練習機型のYS-11T-A(千葉県下総基地・第205教育航空隊)が2011年5月に退役。残りは輸送機型のYS-11M/M-A(神奈川県厚木基地・第61航空隊)が3機のみが運用中です。これも東日本大震災の救援物資輸送で飛びすぎてしまい、近い将来退役することが決まっています。すでに退役したYS-11T-Aの6906号機は、最後に完成した機体でもありました。

最後に完成したYS-11は海上自衛隊のYS-11T-A・6906

YS-11T-Aは対潜哨戒機の乗務員を養成する為に特別仕様になっており、低空ばかりを飛び、窓を開けたりもするので、機内は予圧されていません。特徴的なのはトイレ。ちゃんとした個室ではなく、便器と室内を隔てるカーテンのみという豪快なものでした。対潜哨戒機の乗務員には女性もいるのですが、これはなかなかの試練です。経験者に聞いたところ「訓練では、みんなトイレに行かずに済むよう努力していた」とのことでした。

YS-11T-Aのトイレ

海上自衛隊の整備担当者の言によれば、退役の直接の要因はエンジンの老朽化だそうです。製造が終了して長期間が経過し、交換用部品も調達できなくなる為に飛べなくなるとか。機体自体は丈夫なので、まだまだ十分保つそうですが……エンジンは国産化していないので、やむを得ませんね。現在は退役した機体から部品を調達しているそうです。

ロールスロイス・ダートエンジン

航空自衛隊では、鳥取県美保基地(米子空港)の第403飛行隊に航法訓練機のYS-11NT、人員輸送用のYS-11P、埼玉県入間基地の飛行点検隊に飛行検査機のYS-11FCと、航空総隊飛行隊に電子戦機のYS-11EA(電子戦支援隊)/EB(電子飛行測定隊)が現役です。YS-11EA/EBは、エンジンを退役した海上自衛隊の対潜哨戒機P-2Jのものに換装した変わり種。

第403飛行隊のYS-11P第403飛行隊のYS-11P

このうち、YS-11FCは全国に点在する自衛隊の飛行場へ出張し、定期的に飛行場の航法支援施設の点検を行っているので、一番目にしやすい機体といえるでしょう。

引退したYS-11は各地に保存されています。北は青森から、南は熊本まで。やはり「戦後初の国産旅客機」ということが大きく、人気も高いようです。このうち、青森県三沢市の三沢航空科学館に保存されている、元日本エアコミューターのJA8776は館内にあり、塗装の痛みも少ない状態です。

三沢航空科学館のJA8776埼玉県・航空公園駅前のJA8732

また、記念すべき試作1号機(JA8611)は、成田空港に隣接する航空科学博物館に屋外保存されています。この航空科学博物館は「5人のサムライ」のひとり、木村秀政が設立に奔走したもの。ゆかりの施設に保存されているという訳です。願わくば屋内で展示してほしいところですが、館内に入り切らないのが残念です。

成田・航空科学博物館の試作1号機

国土交通省航空局の飛行検査機「ちよだII」となった量産初号機(JA8610)は、登録記号から「ひとまる」と呼ばれて関係者に親しまれていました。1998年に引退後、国立科学博物館の収蔵品となり、現在は羽田空港にあるT101格納庫(進駐軍が建設した、羽田現存最古の格納庫)で保存されています。

羽田で動態保存されるYS-11量産初号機

国立科学博物館では、この機体を定期的にメンテナンスし動かすという「動態保存」をしています。飛べる状態を維持しつつ、経年変化も記録し続ける……という壮大なプロジェクト。目標は「100年後も動態を維持する」ことです。それに伴う保存費用が「事業仕分け」にも取り上げられましたが、責任者によれば「かえって良かった」とのこと。知る人ぞ知る存在だったのが、これによって世間が存在を認識してくれたことで、保存のアピールもしやすくなったそうです。今まで姿を見せなかった文部科学省の役人が、様子を視察するようにもなったそうで……。

それでも、予算がいつまで続くか判らない……と、先行きも懸念していました。国立科学博物館では、2010(平成22)年度より館内に募金箱を設置し「ひとまる」の保存費用の支援を呼びかけています。2012年6月30日現在、総計で240万円近い金額が集まっていますが、メンテナンスなどに年間900万円ほどが必要なので、まだごく一部にしかなりません。欧米の博物館のように大規模な募金や、篤志家による寄付で運営できればいいのですが、寄付に関わる税制や文化の違いもあり、なかなか難しい面もあるようです。

YS-11の初飛行から半世紀を経た今、ふたたび国産旅客機(三菱MRJ)が開発中です。もうすぐ、YS-11の「戦後唯一」という表現が使えなくなりますが、航空産業からすれば喜ばしいことでもあります。現在300機を超える発注(確定170機、オプション160機)を得ていますが、過去の教訓を活かして成功を収めてほしいものですね。

(文・写真:咲村珠樹)