お疲れ様でした松井秀喜

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 献身的なプレーでヤンキース・ファンを虜にした松井秀喜がユニホームを脱ぐという。地元ビートライターの「彼は、2009年ワールドシリーズMVPの思い出をファンが覚えているうちに、引退した方がいい」が現実になった。けっしてスマートな選手ではなかった。日本であれだけ猛威を振るったバッティングも海の向こうでは2004年の31本塁打が精一杯。それでも他の日本人選手が一度もマークしていないシーズン20発以上を5度もマークした。1年目の2003年にヤンキース担当記者からグッド・ガイ賞を受けた。これは吉井理人投手がメッツの2年目の1998年以来日本人2人目のこと。試合ごとに報道陣に対応する姿が地元記者の心を打った。

 今年で野球記者40年目になる私だが、松井の本塁打を現場で見る機会は少なく甲子園大会は0。巨人入り後も公式戦や日本シリーズは内勤ため、もちろんヤンキース入り後も観光で訪れた2004年は打たず、2006年は故障で左手首骨折のリハビリ中だった。2004年に東京ドームで開催されたヤンキース・デビルレイズ(現レイズ)との開幕リーズではオープン戦での一発は遭遇したものの、開幕2試合目は私用のため記念の一発を見損なうという相性の悪さだった。わずかに、日米野球取材班として1996年2本、98、00年各1本ずつ。それでも98年に66本塁打を引っさげて来日したサミー・ソーサは「彼ならメジャーの球場でも25〜30本は本塁打を打つよ」と単にリップサービスではないコメント残し、その言葉通りになった。

 ヤンキースでは過大な期待を乗り越えて毎年のように地区優勝に貢献した松井。2006年レッドソックス戦の左手首骨折が無ければ、と多くのファンは嘆くだろうが、個人的にはパワーをつけるための体重アップが両膝に負担をかけて、フル出場が出来なくなった要因だと思う。それでも、あの2009年のワールドシリーズは忘れられない。個人的にはノマー・ガルシアパーラがレッドソックスと1日だけマイナー契約して、引退記者会見を行ったように、ヤンキースにとって21世紀唯一の世界一に大貢献した松井を1日だけ復帰させ、その場で引退の花道を作ってあげたらと思った。しかし、それも叶わなかった。

 渡米後の10年間はメジャー担当デスクとして、海の向こうから一喜一憂させられた。一番の思い出は2009年ワールドシリーズの号外作製。第6戦に本塁打含む6打点を挙げてMVPとなり、あわてて100行を30分かからずに書いた。1試合だけで、こちらを慌てさせる日本人大リーガーは、やはり野茂英雄と松井秀喜しかいない。いい時代を共有させてもらった。ゆっくり休んで第2の野球人生を熟慮してください。そして、中西太さんのように、若い選手への的確な指導をする姿を期待しています。お疲れ様でした。

 【注】松井、MVPの号外(2009年11月5日付)