自己啓発書は仕事の「苦しさ」をどう解決するのか-3-

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■TOPIC-3 「自分のみ」を変えることの危うさ

前回内容を紹介しなかった著作が2つありました。中川淳一郎さんと、見城徹さん・藤田晋さんによる著作です。これらは前回紹介した各著作とは少し傾向が違っていると言えます。中川さんの『凡人のための仕事プレイ事始め』では、仕事にはくだらないことがついてまわるけれども、仕事は良くも悪くも人生を左右する重要なものであり、また人生を賭けるに値する尊いものだというスタンスがとられています。

見城さんらの『憂鬱でなければ、仕事じゃない』では、仕事は憂鬱であることを避けられないけれども、「暗闇の中でジャンプ」(見城・藤田、91p)するからこそ前進することができるというスタンスでした(これは、著作の主張の一部分に過ぎませんが)。

両者ともに、仕事についてこれを解決すればすべてうまく行くとは言い切らず、ポジティブさとネガティブさを抱えつつ前に進もうという態度をとっていると言えます。しかし、このように煮え切らなさを抱え込み、仕事の「辛さ」「つまらなさ」への明快な解答を示さない仕事論は稀な方です。それ以外の対象書籍では前回示したように、仕事の「辛さ」等の問題はすべて「心」の問題に還元されているのです。

言ってみれば、仕事が辛い、つまらないと思った人が、書店の「ビジネス」「自己啓発」という棚に救いを求めようとするとき、そこで得られる「答え」にはひとつのパターンしかないということです。

「心」の問題だ、すべて自分の考え方次第だと主張するのは、自己啓発書なのだから当然だろうと言われればそうなのかもしれません。しかし私はどうしても、仕事が楽しいかつまらないか、辛いかどうか、成果が上がるかどうかは「心」の問題だとのみ言ってしまうと、結果としてもっと苦しくなってしまう可能性があるのではないかと考えます。

小倉広さん(『僕はこうして、苦しい働き方から抜け出した。』)と新田龍さん(『明日会社に行きたくないときに読む本』)の著作には、それぞれ「自責」という言葉が出てきます。まず新田さんの場合は、「トップ営業マンやカリスマ店員などと呼ばれる『デキる社員』は真逆で(かつて新田さん自身が自分の他に失敗の原因を求めていたことに対して:引用者注)、『自責』で考えます。すなわち、『起こっていることすべてを『自分の責任』として捉える』ということですね。自分ではない、何かほかのことに責任転嫁しているうちは、問題を解決することは絶対にできません」(新田、29p)。

また小倉さんはこう述べます。「学ばない者は人のせいにして、周囲を責めます。(中略)自責は過去ではなく、未来へと向かう。自責とは、問題の原因が自分にあると考え、自分を変えることで問題を変えようとするアプローチのことです。本来の自責とは自分を『責める』ことではありません。自分で『責任』を取る。それを自責というのです」(小倉、8-9p)。

私はこのような態度そのものをすべて否定するわけではないのですが、このような、仕事で起こる問題は何よりも自分に責任があり、自分をこそ変えるべきという態度に固執することは、新たな苦しさを生むように思うのです。小倉さんの著作を例にして、今述べたこの「新たな苦しさ」について説明したいと思います。

小倉さんの著作では、かつて自身が課長としてチームのメンバーを責め続けた結果、「総スカン」をくらって次のようになったと述べられています。「もしかしたら、本当は、僕のやり方の方が間違っていたのかもしれない……」(6p)。やがて小倉さんは「毎日、毎晩、自分を責め続け、会社に行くことが怖くなって」(7p)、心療内科の門を叩いてうつ病と診断されることになります。

小倉さんは、これは過去に目を向けた、誤った自責だったと振り返っています。そうではなく、未来に目を向け、自分を変えていく自責こそが、苦しさから解放される「本当の意味での自責」(9p)だと主張するのですが、私はこのような考え方に一抹の不安を覚えてしまいます。つまり、未来に向けて自分を変えていく自責によっても仕事がうまくいかなかったら、状況が改善しなかったら、苦しさから抜け出せなかったらどうなるのか、と考えてしまうのです。

これが、先に私が述べた「新たな苦しさ」の意味です。自分自身を変えたとしても、状況が変わらないことはあるはずです。そのとき、どうすべきなのでしょうか。まだ自分は「本当の意味での自責」が出来ていないのだとして、さらに自分自身を変えて、変え続けて…となるのでしょうか。それでもうまくいかなかったら、「もしかしたら、本当は、僕のやり方の方が間違っていたのかもしれない…」と自らを一層強く責めることにならないでしょうか。あまりに自分で引き受けようとすることによって、場合によっては、より苦しい思いを抱えることにはならないでしょうか。

■社会を変えるなんて、考えたこともない

フォルカー・キッツさんたちの『仕事はどれも同じ』にはこうあります。「世の中で起きることが悪いのではなく、悪いのは私たちの考え方なのだ。そしてそれが私たちを悩ませるのだ。私たちは世の中を変えることこそできないが、以上の考え方は健全である」(キッツ・トゥッシュ、185p)。

自分の考え方を変えることで改善できることはもちろんあるでしょう。しかしながら、どう考えても職場環境や、それらをとりまく社会経済的状況(あるいは政策)との関連から考えたほうがよい場合もあるはずです。職場や社会を変えるのが容易でないのは当然にしても、キッツさんらはあまりにも、自分自身の変革以外の可能性をあっさりと切り捨ててしまいます。世の中は変えられないのだ、とあっさり言い切ってしまうのです。前回言及したように、木暮太一さんの『僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?』でも、カール・マルクスの学説を多く引いておきながら、環境の改善には目もくれず、自分自身の考え方(自己内利益の最大化)を変えようと主張されていました。

ここで私が言いたいことは、環境を変えればすべての問題が解決するということではありません。職場環境をとりまく文脈を広く考慮する著作であっても、環境そのものの改善はほぼ捨て置かれ、能力の向上や内面の変革のみが私たちに行える唯一のことだという声ばかりがある、言論のバランスの悪さに注目したいのです。

自ら選択肢を減らす必要はないと思うのです。人間関係、職場環境、労働をめぐる状況、政策にも一因がある――そのなかで今自分にできること、できないこと、より広く考え直していくべきことは何か、あるいは根を詰めるのをやめて休息をとる――という考えを自ら切り捨ててしまうこと。それによって、すべて自分で引き受けるか否かという二つの選択肢に自らを追い込む必要はないと思うのです。西多昌規さん(『今の働き方が「しんどい」と思ったときのがんばらない技術』)はこのような二分法的思考をとることを、教育学者アダーホルト・エリオットさんが指摘した「All or Nothing思考」(31p)という用語から戒めていました 。

すべて自分で引き受ける自責モードに自らを変えろという仕事論ばかりが溢れている、言論のバランスの悪さそのものを観察すべきかもしれません。というのは、このような状況は、社会学者の森真一さんが『自己コントロールの檻――感情マネジメント社会の現実』(2000、講談社)のなかで、近年における社会の「心理主義化」と述べた傾向にまさに合致するからです。森さんは「心理主義化」について、以下のように定義しています。

「心理学や精神医学の知識や技法が多くの人々に受け入れられることによって、社会から個人の内面へと人々の関心が移行する傾向、社会的現象を社会からではなく個々人の性格や内面から理解しようとする傾向、および、『共感』や相手の『きもち』あるいは『自己実現』を重要視する傾向」(森、9p)

今回とりあげた著作にこれらの定義のすべてが当てはまるわけではありませんが、仕事をめぐる辛さやしんどさといった、社会的ともいえる現象を、社会からではなく個々人の性格や内面から理解しようとする傾向は各著作において顕著に見られるものでした。私のような立場からすると、各仕事論において最も興味深いのはこの点、つまり「心理主義化」という概念がまさに当てはまるような傾向が観察された、という点なのでした。

■より苦しくなる人を生む

臨床心理学論を専門とする小沢牧子さんは、「心」に注目することの「脱政治作用」(『「心の専門家」はいらない』201-203p)について述べていました。つまり、「心」を変えよう、癒そうといった目標に専心することで、簡単に解決はできないけれども、自分以外の人達と協力して粘り強く考え、取り組んでいかねばならない「心」以外の問題――今回の文脈で言えば職場環境や雇用状況一般の問題――へのまなざしを破棄させてしまうというのです。これは言い換えれば、状況自体に問題があってもそれを温存させてしまうことにつながります。小沢さんは、「心」を変えればすべてうまくいくといった類の原論について、「穏やかに適応に導く」(202p)管理の手法だとも述べています。私が今まで述べてきたのはほぼこのことでした。

小沢さんの指摘から、派生的に以下のようなことも考えられると思います。たとえば木暮さんが述べる「自己内利益」でも、あるいはグラットンさんが述べる「知的資本」「人間関係資本」「情緒的資本」でも、岩瀬大輔さんが述べる「コミュニケーション」「スキル」「モチベーション」「キャリアプラン」「プライベート」「チャレンジ」という6つの課題でも、そして「自責」でもいいのですが、これらを高める、あるいは行うことは、どのような職場で働く、どのような人にでも同じようにできるのかということです。

たとえば、小倉広さんの著作の中には、次のような女性の言葉が紹介されています。「私が勤めている会社は、ひどい状況です。労働基準法を無視して、ただ働きの休日出勤や残業を強制されたり、人間性を無視したようなパワハラが横行したり。この状況で感謝しろ、と言われても、とてもムリです(小倉さんが、感謝の気持ちを持てば苦しさが消えていくと締めくくった講演会後の懇親会の席で:引用者注)」(小倉、168p)。

小倉さんはこのとき、「質問に答えることができませんでした。あまりにも辛い現状を受け入れることができないでいる彼女に『べき論』を言うことなどは、とてもできなかった」(169p)とまず述べています。しかしその後彼女には「足りないことを嘆くのではなく、今あるもののありがたさを見なさい」(169p)と言葉をかけ、その節を最終的に「苦しさの原因を外部環境のせいにしてはいけません。そうではなく、辛いことがあったときに、自分の考え方が原因であることを自覚する」(173p)という持論に引き戻してまとめています。小倉さんは決して悪意で言っているわけではないと思うのですが、劣悪な労働環境の問題はここでは結局、自分自身の考え方の問題に引き戻されています。

ここで少し異なった見方を提示してみましょう。反貧困ネットワーク事務局長の湯浅誠さんは『反貧困』(2008、岩波書店)のなかで、次のような言及をしています。「『自分も頑張ってきたんだから、おまえも頑張れ』という言い方は、多くの場合、自分の想定する範囲での『客観的状況の大変さ』や『頑張り』に限定されている。そのとき、得てして自他の“溜め”の大きさの違いは見落とされる。それはときに抑圧となり、暴力となる」(湯浅、88p)。

「溜め」という言葉は、この著作のなかでは、生きていけるかどうかの生活をする人々が「がんばるためには、条件(“溜め”)が要る」(91p)という文脈において提示されている言葉でした。これには経済的な溜め、人間関係の溜め、精神的な溜めなど、いくつかのバリエーションがあります。私はこの湯浅さんの「溜め」という言葉は、貧困の文脈だけでなく、仕事上の成功や仕事論一般にも援用してもよいのではないかと考えています。

つまり、上記の「溜め」は、働いている人一般において、誰もに等しく配分されているわけではないと考えるのです。仮に、上記の女性のような、劣悪な労働環境に置かれている方がいたとして、そのような状況で、自分の考え方を変えて、スキルを高めて、色々な資本を高めて、今後も頑張っていこうと思うことは果たしてどれほど可能なのでしょうか。

もちろん、可能な人もいるとは思うのですが、それは少数派なのではないでしょうか。今回とりあげた著作の多く――自己啓発書一般がそうかもしれませんが――についておそらく言えるのは、湯浅さんが述べるように「誰もが同じように『がんばれる』わけではない」(91p)ということがあまりに看過されているということです。

にもかかわらず、どのような状況でも、自分自身の考え方を変えることができる、それさえできればすべての状況は改善できる、できないのならそれは…と言うのは、それによってより苦しくなる人を生むのではないのでしょうか。ものの見方を単純化することの功罪があると思うのです。

さて、仕事論そのものについてはこれで終わりです。次回は、今回の対象書籍を読みながら、もうひとつ、派生的に考えたことについて書いてみることにします。タイトルは「自己啓発書を多く読むとどうなるか」です。

(次回は1月9日に掲載します)

(牧野 智和=文)