富士ゼロックス 人事本部 営業力強化グループ マネージャー 
金岡俊克 
富士ゼロックス入社後、10年間国内営業として優秀な成績を収めるが、90年に営業教育部門へ異動。「順調に出世していたので、営業でもっとやりたかった」。94年から2002年までアジア3カ国に赴任。帰国後は国内、海外の人材育成業務を担当している。

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「今から私が言う数字を書け。3000万円。これがおまえの退職金だ。おまえは退職だ。今すぐ辞めなくてもよいが、辞めなければ窓際に追い出す――」

ある大手メーカーの開発部門で部下のいない課長職待遇だった青木裕司さん(仮名、57歳)は、3年前に上司から解雇を通告されたときの言葉を今でもよく覚えている。

「腹が立ちましたが、抵抗してもムダなことははじめからわかっていたので、すぐに承諾するほかありませんでした」

この会社では当時、事業再編に伴いリストラの嵐が吹き荒れた。退職勧奨されたのは中間管理職の一番下、つまり課長待遇でありながら部下を持っておらず、かつ営業以外の部門に属する社員が中心だった。要するに給料が比較的高く、組合員ではなく、売り上げに直結しない社員が切られていったのである。

青木さんは地方の国立大学を卒業後同社に入社し、約30年のキャリアの半分を営業、残りの半分を製品開発に従事してきた。「常に勉強」をモットーとし、自分が開発に携わった製品が世の中で役に立つことに働く喜びがあったという。ただ、出世には入社当時から冷めていた。

「地方大学出身者が役員に上がろうと考えるほうが間違っているんじゃないですか。学閥の壁が絶対にありますから。大学の先輩は後輩をひいき目に見てくれる。その関係性を打ち破ろうと思っても無理なんです」

この会社で役員になる者の多くは東大卒や京大卒の学歴の持ち主だった。また、青木さんには昇進で苦労を背負い込むのはどうか、という考えもあった。

「昇進しても下からは突き上げられ、上からは叩かれます。そこそこの収入があれば、そんなに無理をすることはない。これは私の人生哲学の1つです」

メーカーを退職した後、青木さんは同じ業界で急成長中のベンチャーに再就職したが、あまり社風と合わない様子である。

「トップは発想力も行動力も素晴らしい方ですが、さまざまな面で要求水準が非常に高く、私はついていけないと思っています。実は持病を抱えている身でもあるので、倒れるほど自分を追い込む気にはなれません」

青木さんは数年後に控えた定年後は仕事を離れ、親の介護のため実家に戻るつもりでいる。

■同期の出世頭から一転、未開の地へ

青木さんと同世代である金岡俊克さん(54歳)は、富士ゼロックス人事本部でプロフェッショナル職として国内外の人材育成業務や海外組織の支援で忙しい日々を送っている。

1979年に同社へ入社した金岡さんのキャリアの振り出しは営業職だった。全国ランキング上位の常連になるほどの成績をあげ、昇進は同期のトップを走っていた。

そんな金岡さんに転機が訪れたのは入社11年目。営業教育部門へ異動になったのだ。さらにその4年後、海外十数カ国の教育マネージャーとして、シンガポールに拠点を置く富士ゼロックス・アジアパシフィックへ出向することを打診された。

「当時はまだアジア展開の重要性がほとんど騒がれていないころ。教育から営業の現場に戻って課長、そして営業所長になってと将来のキャリアを計算する感覚もありましたから、海外出向を打診されたときは三日三晩考えましたよ」

金岡さんが海外に行く決断をしたのは、「小さい男ね。今から“あがり”を考えているの?」という妻の痛烈な一言だった。

「言われてみれば確かに、偉くなりたくて入社したのではない。それにふと周囲を見渡すと、先輩たちの昇進・昇格が遅くなっていて、いわば高速道路で渋滞にぶつかった状況になっているわけですよ。そこに誰も走っていないアジアという道が私の前に開かれた。先はどうなるのかわからないけれど俺はこの道を行くんだ、と腹を決めました」

赴任した途端、統括エリアの各国からさまざまなリクエストがあり、対応に悪戦苦闘した。しかもシンガポールは公用語が4つある複合民族国家。同じ会社の社員でも「あなたの基準は何?」という地点から議論を始めなければならず、コンセンサスを得るのが難しかった。当初は言葉の壁もあった。

金岡さんはそれらの問題を1つ1つ解決しながら3年を過ごした後、ベトナムとフィリピンで主席駐在を務め、2002年に国内営業本部へ帰任した。海外勤務は合計8年間にわたった。

仕事で常に金岡さんが心がけてきたのは「かけがえのない人材になる」ことだという。

「要は『あの人がいないと仕事がはじまらない』という存在にならないと、後々厳しくなると感じていました。そのためには、その時々の年齢でやるべきことを絶対にやる。今、私は54歳ですが、54歳でやっておかねばいけないことが必ずあると思うんです。それを見過ごしてしまうと、次の機会はやってこないと思います」

■要職にいる人のほうが狙われる!

サラリーマンの出世の趨勢は50代に入るとほぼ決まり、役員になれる人間は一握り。だが、重要なポジションに就いていない立場ならではのメリットもある。東京ガス・西山経営研究所の西山昭彦所長はそう説明する。

「一般論としては重要なポストにいる人のほうが危ない。年寄りを追い出して新陳代謝を図ろうという圧力が働くからです。ポストにいない人間にはそうした圧力がない代わり、『この人は待遇に対してペイしているのか』という個人収支が問われます。そこで生き延びる1つの方法は、『この仕事ならあの人だね』と言われる存在になること。メジャーな仕事でなくてもいいんです。例えば経理畑の人が税理士の資格を取り税務のプロになるとか、営業マンで大口の得意先のトップと若い頃から培った強いパイプがあるとか、簡単に外せない価値のある人は定年後も残れる可能性があります」

西山所長自身、東京ガスにおいて自身の名を冠した研究所長という極めて独自のポジションを築いている。その背景には社内ベンチャーを起業し黒字を実現した経営の実践経験と、夜間大学院に通い経営理論を身につけ経営学博士号を取得したことがある。

西山所長は自身の経営実践と経営理論を結び合わせ、会社にプラスになる調査研究や政策提言を行うという「オンリーワンの価値」を生み出しているのだ。

自分ならではの価値を生み出すと同時に、それを周囲や会社に認めさせる努力も必要である。西山所長が勧めるのは個人収支表の作成だ。

「たとえば私の場合、自分が取材を受けたことによる広告効果を分析したり、自分が主宰した委員会や研修、調査をシンクタンクに委託したらいくらかかるかを推計したことがあります」

昔ほどではないものの、多くの日本企業では年功的な賃金カーブを描いており、ぼんやりしているといつの間にか不採算社員の烙印を押されかねない。50代のサラリーマンが生き残るには自分独自の価値を生み出し、待遇に対しペイしているとアピールする必要がありそうだ。

では、これまでに価値ある仕事をしていなかった人は諦めるしかないのだろうか?

それでも諦めるのはまだ早い。

「営業職であれば自社で誰も手をつけてない企業を開拓する。マーケティング職であれば理論を徹底的に学び、売り上げ増を実現する。誰も狙っていないポジションに飛び込むことで、自分の価値をあげるのです」

※すべて雑誌掲載当時

(宮内 健=文 上飯坂 真=撮影)