信長さんのお城「安土城」の話




織田信長の安土城は教科書に必ず出てくるお城ですが、実はその正確な姿は謎のままなのです。安土城について、歴史研究家の藤井尚夫さんにお話を伺いました。藤井さんはお城の復元図を多く手掛ける専門家です。



――安土城の天主はなぜ正確な姿がわからないのでしょうか。



藤井さん まず本能寺の変で信長が死んだ後、明智光秀と秀吉との争いの中、燃やされて、その後再現されません。また、当時の外見を正確に描いた絵画資料が残っていません。なので推測するしかないんですよ。



――どうやって安土城天主の形を推定するのですか?



藤井さん それは太田牛一が書き残してくれているからできるんです。太田牛一という人は信長の側に常につき従っていたと思われる人で、信長の言動をこと細かく記録して残してくれました。江戸時代には『信長公記』(しんちょうこうき)という形になって写本が作られています。この中に、安土城の描写があります。



――それは、どんな内容なんでしょうか。



藤井さん 例えば、天主一階には、「十二畳敷、唐の儒者達を」狩野派の絵師に描かせた部屋があったなど、各部屋のことが書かれています。また天主第四層、第五層の外部の色なども描写されています。これらの記述を元に再現図を描くんです。



――ということは、復元者によって細部が変わってくる可能性がある?



藤井さん そうですね。解釈の違いが出ますので。例えば、太田牛一が地上一階には「御土蔵」があったと書いています。天主の中に土蔵があるというのは、私はヘンだと思いますので、これは天主の外に隣接してあったものだと解釈しています。でも天主内にあったと想定する方もおられますね。



――藤井さんは復元図を制作される時にどんな点に興味を持ちましたか?



藤井さん 安土城は外部五層、内部七階建てでしたが、この四層と五層部分が特徴的ですね。この四層と五層の両方に「御縁輪」(ごえんがわ)があり、「高欄」(こうらん)があったと書かれています。これは軍事的構築物ではないですね。



*……高欄というのは縁などの端に設ける手すりのこと。



――ベランダみたいになっているところですね。四層目にもあったのですか?



藤井さん 太田牛一は四層目の外側の画についても記述をしています。逆に言うと、太田牛一という人は、そこに立てる人だったと言えます。また擬宝珠(ぎぼし)があったという記述もあります。なので擬宝珠高欄が四層目にあったと推測するのが自然ではないでしょうか。



*……擬宝珠(ぎぼし)というのは、高欄の親柱にかぶせる宝珠型の飾りのこと。橋などでも見られる。



――なるほど。外観の色なども記述があるのでしょうか。



藤井さん 四層では部屋の内側が金で、外の柱が朱という記述があります。宣教師・フロイスの記述の中に「壁が青」と書いてあったりするんですが、これは窓の「桟」(さん)の部分のことだと推測されています。緑青色、つまりエメラルドグリーンのことを「青」と書いたのではないでしょうか。ただ、復元案によっては壁を青にされている方もおられますね。



――もし、宣教師の記述が正しいなら「壁が青」というのは相当派手ですね。



藤井さん 配色としては派手ですね(笑)。あと瓦ですね。安土城の瓦は特別製だったんですよ。



――と言いますと?



藤井さん 唐人の一観という瓦師(かわらし)が焼いた瓦を使ったと書いてあり、軒瓦に金箔(きんぱく)を貼(は)ったものが現地で発見されています。



――記述を頼りに少しずつ再現していくしかないんですね。



藤井さん そうですね。今から安土城の外見を正確に知る可能性としては、行方不明の屏風(安土山図屏風)を発見するしかないでしょうね。これは信長から贈られて、宣教師ヴァリニャーノからバチカンのグレゴリウス13世に献上されたものです。安土城が描かれていたのですが、残念ながら今では行方不明です。



――バチカンには到着したんですか?



藤井さん ええ。記録もあります。その後どうなったのかわからないんですよ(笑)。



――ちゃんと探したんでしょうか(笑)?



藤井さん 出てくると世紀の大発見なんですけどね(笑)。



織田信長の安土城は、本人の非業の死と共に失われてしまいました。もしかしたら、その本当の姿も永遠にわからない方がロマンがあるのかもしれません。





(高橋モータース@dcp)







↑安土城天主跡の礎石







↑天主最上階で佇む信長(画/藤井尚夫)