これかわ・ぎんぞう/1897年生まれ。幼少時から実業家を目指すが、昭和恐慌を機に経済を猛勉強して株式投資をスタート。巨額の利益を得るも、ほとんどを奨学財団に寄付。1992年没。【イラスト/南後卓矢】

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通称“是銀”で親しまれ、1992年に95歳で亡くなるまで活躍した投資家、是川銀蔵。彼の成功事例は、30億円の利益を手にした日本セメント(現太平洋セメント)株、200億円の利益を手にした住友金属鉱山株への投資など、枚挙に暇がない。連載第3回目では、昭和の名投資家が彼が失敗の末に目指した投資手法について見ていこう。

[参考記事]
●【是川銀蔵に学ぶ】株でコンスタントに勝つには正攻法しかない。経済を一度徹底的に勉強すべし!(第1回)
●【是川銀蔵に学ぶ】仕事も趣味も、一度徹底的に勉強して極めよう。それが最高の投資力につながる(第2回)

経済情勢を冷静に分析し、同和鉱株の暴騰を当てる

 感情が原因で失敗することは多い。是川銀蔵も、感情のコントロールができなかったために、復活不能寸前の失敗を犯したことがある。それは、1978年のことだ――。

 この時の是川のターゲットは同和鉱業株。この時期、銅業界は世界的な需要低迷で苦しみ、大手の同社も不振に喘いでいた。しかし、何十年もの銅の需要・供給の推移や、業界の状況を丹念に調べた是川は、転換点が近いことを感じ取っていた。

 銅鉱は閉山が相次ぎ、世界の銅の供給能力は相当小さくなっている。この状況で何かきっかけがあれば、銅の需給は一気に逼迫し、市況が急騰する。その時に生産拡大で対応でき、恩恵を受けられるのは同和鉱業だ。少なくとも、同社の状況が今より悪化することはない――。こう考えた是川は、100円台で低迷していた同社株を人知れず仕込み始めた。目標は500円だった。

 是川の狙いは、またしても当たる。1979年に入ると銅市況は好転し、同社株は6月に300円、10月には400円、そして、1980年1月には目標の500円に到達した。

欲ふくらみ、売り場逃す

 しかし、是川は売らなかった。そして、欲望をさらに高ぶらせ、信用取引により保有株数を膨らませていった。この時は、中東情勢の不安で銅市況は高騰を続けていたが、ソ連によるアフガニスタン侵攻のニュースで是川の気持ちは舞い上がる。「間違いなく、大相場になる」と。目標株価も1000円へと上げていった。

 しかし、株価動向は900円台から急速に鈍る。「あれが天井だった」と是川が気づいた時にはもう遅かった。それから大量の持ち株を必死に処分売りしたが間に合わない。5月に株価は300円台に逆戻りしていたが、まだ大量に株を抱えていた。必死の対処で、最後はなんとか同和鉱業を手がける前の30億円を残すことが出来たが、一歩間違えば、破産する状況にまで追い込まれたのだ。

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