明治ホールディングス社長 
浅野茂太郎(あさの・しげたろう)
1943年、東京都生まれ。66年学習院大学法学部卒業、明治乳業入社。91年加工食品販売部長、94年販売企画部長、95年取締役、99年専務、2001年副社長、03年社長。09年明治ホールディングスの設立で同社副社長に。ホールディングス傘下の明治社長などを経て、12年6月から現職。

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■部下の創意を育む「段取り八分」の心

1984年春、東京都心で開かれた社内のQC(品質管理)活動の発表大会で、「やったぞ」と頷いた。関西支社の業務課の部下の女性たちが、全社のQCサークルのなかで最優秀賞に輝いたのだ。当時、業務課長。満40歳だった。

業務課は、82年1月の組織改革で、大阪市北区にあった関西統括店が支社に格上げされたときに新設された。兵庫と京都に支店、奈良と和歌山に営業所があり、約500人の社員を抱えていた。業務課は約30人の部隊で、総務、予算管理、労務管理から交通安全までを担う関西地域の仕切り役。初代課長を務めた。

当時、関西支社では営業マンの交通事故が多かった。そこで、「QC活動で、業務課は交通事故撲滅チームをつくろう」と提案し、女性だけのチームを編成する。女性陣は月1度、「安全ニュース」を出した。そこに、事故を起こした人間へのインタビュー記事を載せる。「何で事故を起こしたのですか?」「そのとき、どういう仕事をやっていましたか?」「結果、どう反省していますか?」などと、ソフトに聞くので、事故を起こした側も率直に答える。でも、本音は、記事に載りたくはない。やがて、営業マンたちは運転に注意深くなり、事故が激減する。全国最優秀賞の受賞は、東京支社へ転勤する直前のことだった。

事故を起こした社員へのインタビューは、女性たちの発案だ。自分はいつも、管理職として物事の優先度を考え、担当者を選び、任務の方向性を示すだけ。具体的にどうやればいいかは、部下たちに考えさせる。だから「段取り八分」が口癖だ。段取りさえでき上がれば、もう、やるべき作業の8割はすんでしまう。あとの2割を、部下たちが考える。

段取りを考えるときは、やはり、費用対効果を考慮する。やりやすいか、やりにくいかといった難易度では、道は選ばない。同じ関西支社で直面した巨額の債権回収でも、その姿勢で臨んだ。83年、スーパーなどにも納入し、全国一の規模だった管内の牛乳販売店が、安売り合戦に不動産投資の失敗が重なり、経営が行き詰まる。億円単位の売掛金が回収できず、大きな穴が空きかけた。販売店はあちこちから借金をして、ついには危険な街金融にも手を出していた。社長室の隣の部屋に街金融の関係者が居座り、少しでも入金があると、持っていってしまう。自分たちが集金にいっても、帰りに、脅すように手荷物を調べられた。

ここで、最大限の回収を目指し、段取りを整える。中堅企業や中小企業にもオフィス用コンピューターが普及したころで、その牛乳販売店も社長室に入れていた。そこに目をつけ、ある晩、隣の部屋の見張りに気づかれないように、オフコンで顧客データを打ち出す。売掛金の台帳や領収書、債権譲渡契約書もそろえ、自分のトレンチコートで包んで窓から投げた。外には呼んでおいた部下がいて、持ち帰る。支社で販売店の顧客から直接、集金するためだ。

自分たちの役割はそこまで。あとは収納係に任せ、3カ月かけて売掛金の多くを回収する。段取りでは、誰に何の役をさせるか、人事と配置が大事だ。それが整えば、後は楽。そのころの収納担当は、風貌がいかつく、街金側も一目置いていた。

「勞於索之而休於使之」(之を索むるに勞して、之を使うに休す)――その任務に適した人をみつけて就けるまでは苦労するが、いったん人を決めたら、その人に一任し、自分は安んじていればいいとの意味で、中国の古典『荀子』にある言葉だ。段取りで配置を重視し、あとは任せる浅野流は、この教えに重なる。

1943年9月、東京・神田神保町で生まれる。妹が1人。小学校に入る前日、街で火事があり、自宅が延焼。芝大門へ引っ越した。父は国家公務員。何軒か貸家を持ち、その一軒を中国人に貸していた。戦後、その中国人が戻ってきて、「中華料理店をやりたい」と言った。食糧難の時代で、新橋と新宿に出した中華料理屋は大繁盛。父はそれをみて「中華料理屋は儲かるな」と思ったらしく、火事の後、役人を続けながら中華料理店の経営を始めた。

父の兄が戦前は東京・赤羽で酪農をしていたが、戦争中にやめて、明治牛乳の販売店を始めた。そんな具合で、子どものころから「食」の世界が、ごく身近にあった。小学校のときから体が大きく、麻布中学、高校を経て学習院大学法学部を出るまでの10年間、柔道部ですごし、最後は3段になる。

■6年半の「巡回」で各職場の内容知る

66年4月、明治乳業に入社。それまで明治製菓も明治乳業も一緒の会社だと思っていたが、入社して別々の会社だと知る。最初の配属先は市川工場で、3年目には経理主任となって、29人の部下を持つ。工場は当時、東洋一の規模。最先端の牛乳専門工場で、1日に100万本つくっていた。普通は3年程度で転勤になるので、次は営業部門を希望していたが、2年目に労組の執行委員となり、3年目に副支部長、4年目には支部長にもなった。お陰で営業にはいけなかったが、組合員500人と交流し、いろいろな職種の人を知り、各職場の事情にも通じる。

7年たって、本社の監査部へ異動した。部長以下7人の小世帯で、生産から販売まですべての部門をチェックする仕事だから、全国に約50あった事業所の大半を回る。1年のうち3分の2は出張で、週末も出張先ですごすことが多く、各地の名産を味わうこともできた。

75年秋、人事部労務課へ移る。担当は職場の労務管理で、労働基準法などを遵守するように指導するため、やはり全国の事業所回りが続いた。こちらは4年。監査部と合わせて6年半の巡回で、工場や営業の現場も含め、今度は会社全体の仕事について理解が深まっていく。

もっと大きかったのは、「勞於索之」のための社員データベースが、頭の中に構築されたことだ。当時、6000人いた社員のなかで、2500人まで名前と顔が一致するまでになる。のちに人事部長になったときも、新しい事業チームをつくるときも、大いに役立った。

2003年4月、社長に就任。デフレの長期化、競争のグローバル化と自由化の進展、食品に対する消費者の厳しい目、人口減など、経営環境は厳しい。でも、社員たちには「当たり前のことを、当たり前にやっていくことが大切だ」と説く。「段取り八分」の教えも続く。

2009年4月、明治製菓と経営統合し、持ち株会社の明治ホールディングスを設立した。製菓は、1906年に創業した明治精糖から生まれ、乳業は製菓の乳製品部門が独立してできた。「1つの会社」は間違いだったが、源流は同じ。2年後、両社の事業を再編し、薬品事業以外を「明治」にまとめ、今度はその社長を務める。昨春の福島原発事故の影響で、12月に自社の粉ミルクから、暫定規制値以下とはいえ放射性物質セシウムが検出された。でも、事業統合で「明治」に統一したブランド力が浸透し、乗り切った。

この6月、持ち株会社の社長になった。事業会社から離れるのは、さびしい。でも、グループには1万5000人を超える社員がいる。統合で、人材はさらに多様化した。営業部門や研究所の部長、課長クラスの交流も、進めている。もちろん、経営環境は厳しさが続くが、「勞於索之」さえきちんと実践すれば、統合の相乗効果は、必ず出るはずだ。

振り返れば、関西支社ですごした2年3カ月や、次号で触れる冷凍食品の開発に取り組んだ40歳前後の課長時代が、ビジネスパーソンとして最も面白く、楽しいときだった。当時の部下たちと一杯やれば、思い出話は尽きない。そして、「段取り八分」の話も出る。

(経済ジャーナリスト 街風隆雄 撮影=門間新弥)