戦国武将「ヘー」な話




戦国時代は魅力的です。さまざまな個性あふれる武将たちが活躍していたからです。教科書にあまり書いていない戦国武将のお話をご紹介します。



■毛利元就 毎年戦争を死ぬまで!



毛利元就は恐るべき戦国大名です。安芸(広島県西部)の一豪族から身を起こし、安芸の統一を成し遂げ、そればかりか備後、周防、長門、石見、出雲、因幡、伯耆を版図に収め、加えて備中、九州の筑前、四国の伊予、讃岐を影響下に置くまでに毛利家を大きくしたのです。



つまり中国地方のほぼ全域と北九州の一部、四国北部、西部を影響下に置いていたわけです。一代でここまで勢力を拡大してのけた毛利元就はまさに戦国武将の鑑(かがみ)と言えるでしょう。



彼の生涯は戦争、また戦争の日々でした。22歳から75歳で死ぬまで、戦争をしなかった年はなく(!)、この点でもほかに類を見ません。謀略を縦横に駆使し、生涯に亘って「仁義なき戦い」を繰り広げた元就は「天下を目指すな、今の版図を守ることを考えよ」と遺言しています。



拡大を続けた元就にしては意外な遺言ですが、跡取りの資質を考えてのことだったのでしょうか。毛利家はこの後、関ヶ原の戦いで西軍の大将として担ぎ出され敗戦。その結果、周防、長門の2国に減封されてしまいました。明治維新では、その長州藩が幕府・徳川家を倒す中心的な役割を果たすことになるのです。



■宇喜多秀家 八丈島の流人第1号!



宇喜多秀家というと備中岡山の大名でした(57万4,000石)。豊臣政権の五大老の1人でもありました。しかし、その運命は皮肉なものでした。日本を二分した関ヶ原の戦いで、西軍についたため宇喜多家は改易。秀家自身は鹿児島の島津家まで逃げのびますが、後に徳川家康に引き渡されます。



死罪は免れますが、八丈島へ流されました。八丈島はこの後、流刑地として多くの流人を受け入れます。公式な流人第1号は宇喜多秀家なのです。ちなみに子孫の方が現在に至るも八丈島の秀家のお墓を守られているそうです。



■森家の人々 6人中5人は戦死



森蘭丸というと織田信長に仕えた小姓として知られていますが、この森家は結構ヒドイ目に遭っています。まず蘭丸の父親である森可成(もりよしなり)という武将がいました。信長の家督相続、尾張統一に尽力し、そのため信長の信任も厚かった武将です。



しかし、浅井朝倉連合軍から信長の後背を守るため、坂本で戦死。彼の子供は6男いました。可隆(よしたか)、長可(ながよし)、蘭丸(らんまる)、坊丸(ぼうまる)、力丸(りきまる)、長重(ながしげ、後の忠政)です。



長男の可隆は父親の可成と同年(1570年)19歳で戦死。そのため次男の長可がわずか13歳で森家を相続。蘭丸、坊丸、力丸は3人とも、本能寺の変で信長と運命を共にします。



長可はその後、小牧・長久手の戦いで27歳で戦死。末弟の長重は14歳で森家の家督を嫌々継ぎました(「いやだ」という文書が残っている)。父親、5人の兄たちはいずれも若くして戦死しましたが長重だけは65歳まで生きました。戦国時代の『プライベート・ライアン』のような話です。



■長宗我部元親 四国平定だったのに!



土佐は古くから流人の国でした。この土佐の一豪族から身を起こし、土佐を平定、もう少しで四国を平定! というところまでいったのが長宗我部(ちょうそかべ)氏です。長宗我部氏は土佐の豪族でも下から数えた方が早いほどの弱小な家でした。事実、一度は本城が落とされ、一家離散の憂き目にあっています。



そこから家を再興したのが長宗我部国親(ちょうそかべくにちか)でした。臥薪嘗胆、少しずつ勢力を拡大し長宗我部を大きくしていきます。この国親の息子が元親(もとちか)です。元親は二十一歳で初陣を迎えますが、その時に初めて槍の使い方を聞き敵陣へ突撃。見事、敵をやりで討ち取ったといいます。



国親の後を継いだ元親は辛抱強く戦略を進め、ついに悲願であった土佐の平定に成功。戦略眼のあった元親は織田信長に接触を図ります。畿内の平定で忙しかった信長は「四国は切り取り放題」のお墨付きを与えます。また、元親をさほど重要視していなかったのでしょう、「鳥なき里の蝙蝠(こうもり)」と元親を評したと言われています。



つまり、「鳥がいないような田舎の里では、コウモリのようなヤツでも評価される」という意味で信長は元親を認めてなかったのです。



最初は「ふん!」ばかりに長宗我部家をあまり重視していなかった織田信長ですが、元親の快進撃が続くと徐々に焦り始めます。今風に言うと「ちょwおまw」状態です。「四国切り取り放題」のお墨付きを出したくせに、「土佐と阿波はやるからあとはダメ」と言い出す始末。



元親はこれを拒否し、信長と対決することになります。畿内から信長軍が来るぞ! という時になって本能寺の変が勃発。元親は一息つきました。この後中央のドタバタ、つまり秀吉と家康の争いの最中に四国平定へとまい進します。そしてほぼ四国をまとめあげた時に、秀吉軍が攻め込んできたのです。元親の軍は降伏し、許されたのは土佐一国の領有だけでした。



結局「振り出しに戻る」のような結果になってしまいましたが、長宗我部元親は一代の英傑だったと言えるでしょう。やりをたばさんで睥睨(へいげい)する彼の銅像が、高知県高知市の若宮八幡宮に立っています。







(高橋モータース@dcp)