人に好かれる「嫌いなクセ、欠点」逆転の活用法−−土屋賢二

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お茶の水女子大学名誉教授 
土屋賢二 
1944年、岡山県生まれ。東京大学文学部哲学科卒業。同大学院博士課程退学。2010年、お茶の水女子大学教授を定年により退官。専門はギリシア哲学・分析哲学。著書は『われ笑う、ゆえにわれあり』など多数。週刊文春の人気連載エッセイ「ツチヤの口車」は12年間続いている。

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結論から言うと、劣等感があればしめたものだ。

劣等感を持たない人間はいない。そして、劣等感を持たないようにすることは不可能である。学校で一番足の速い人は、市で一番速い人に対して劣等感を持つだろう。市で一番足の速い人は、県で一番足の速い人に対して劣等感を持つに違いない。

よく「劣等感をバネにがんばる」と言うように、劣等感がさらなる向上のための強い動機になることも確かである。しかし必死で努力し、世界一足の速い人になったとしても、足の速さにおいてはチーターの足元にも及ばないのである。劣等感が完全に消えてなくなることはありえないのだ。

劣等感とは、ある能力において自分が他者に比べ劣っていると認識することから生まれる感情である。しかし、人の欠点には、本当にネガティブな側面しかないのだろうか。

「うまく話せなくて悩んでいるんです」と相談されたことがある。そのとき「口下手は大事にしたほうがいい」とアドバイスをした覚えがある。

わたし自身も口下手だ。学生による授業評価で「“あー”や“うー”が多すぎる」と書かれたことは枚挙にいとまがないし、学生に用事があって留守電を入れたとき、自分では立て板に水で話したつもりが、後で学生に「10秒間のメッセージに“あー”“うー”が6回入ってました」と言われた。

しかし考えてみると、多くの場合、流暢に話す人より口下手な人のほうが好感を持たれるのではないか。わたしの前に来て口ごもったり、緊張したりしている人を見ると「この人はわたしを緊張すべき相手、畏れるべき相手と認識してくれているのだ」と感じ、悪い気はしない。逆に、初対面だというのに立て板に水のごとくしゃべられると、「こいつはわたしを軽んじているのではないか」「何か売りつけられるんじゃないか」などと思ってしまう。

昔、弟がわたしの結婚披露宴の司会をしたとき、弟は用意周到に準備をして臨んだのだが、いざ本番になると、緊張のあまりしどろもどろになってしまい、進行も無茶苦茶になった。ところが後に、妻の親類たちが口々に「あなたの弟さんはいい人だ」と絶賛したのである。これがもし、プロの司会者のように流暢な司会進行ぶりを披露していたらどうなっていただろう。「弟さんは司会のうまい人だ」という評価は受けたかもしれないが、「弟さんはいい人だ」と言われることはなかったに違いない。人は、自分より優れた人には好感を持ちにくいものだ。

仕事や披露宴に限った話ではない。人生のありとあらゆる場面において「感じがいい」と思われることは、生きるうえでこのうえなく大きなメリットをもたらしてくれるのだ。

かくいうわたしも30代の半ばまでは人並みに、「教師たるもの、学生に対して弱点を見せてはいけない」と強く思っていた。実際、学生からは「ツチヤはカミソリのような人間だ」と評されるなど、近寄りがたい雰囲気を発していた。しかし、ある出来事を契機に、わたしはその認識を新たにすることになった。哲学の講義で「カテゴリー」という概念について説明しようとしたときのことだ。

「カテゴリー、といっても君たちにはわからないと思う。日本語では範疇というが、それでも君たちにはわからないと思うから、文字で書いてあげよう。範疇とは……」

わたしは無知な者に教える優越感にひたりながら黒板に向かった。が、“範”は難なく書けたものの“疇”の字がどうしても出てこない。狼狽を隠しながら仕方なく“範ちゅう”と書くと、学生の間から失笑がわき起こった。わたしは哲学者が哲学用語を書けないという恥辱を味わったのだ。

しかし、後日わたしは思い直した。教師は教祖ではない。学問を教えたり、一緒に知見を得ようとする以上、学生にはどんな偉人の主張でも鵜呑みにしない人間になってもらうのが教師の役割である。とくに哲学は、学生に「自分の頭で考える」ことを教えるのが目的だ。教師が話したことをそのまま覚えてしまったのでは哲学を教えたことにはならない。しかし、尊敬する教師の言うことであれば、学生たちはきっと鵜呑みにしてしまうであろう。

こう考えて、尊敬される人間になる道を捨て、尊敬されない人間になろうと日夜努力を重ねた(幸い、わたしは険しくないほうの道を選ぶタイプである)。バレンタインデーに他の教授が学生からチョコレートをもらっているのに、だれもわたしにくれないことに腹を立て、研究室の扉に「バレンタインデーのチョコレートはお断りします」という張り紙をしたこともあるぐらいだ。

そうした努力が花開いて、やがて学生のほうでも、わたしを尊敬するのは恥だと思うようになった。わたしのような尊敬できない人間が「ソクラテスは間違っている」などと偉大な哲学者の悪口を言っているのを見て、学生たちは「絶対にツチヤのほうが間違っている」と考えて、わたしの間違いを論証しようとして自分の頭で考えるようになったのである。

こうなればしめたものだ。わたしは「学生に対して弱点を見せてはいけない」という長年の呪縛から解放され、毎日軽やかな気分で通勤できるようになったし、学生たちも気軽にわたしに質問をぶつけてくるようになった。

職場でも同じことが言えるだろう。部下はいい格好ばかりして自分を守ろうとするリーダーより、欠点を自ら認めている人についていきたくなるものだ。負け惜しみでなく、自分の欠点は積極的にさらけ出すべきだと思う。

わたしはイギリスのケンブリッジに研修で滞在していたことがあるが、イギリスではユーモアのセンスがとても重要視される。ほとんどの人が自分の交際相手に不可欠な第一の条件としてユーモアのセンスを挙げるほどだ。

イギリス人によると、ユーモアのセンスは苦難に立ち向かうのに不可欠なのだと言い、とくに自分を笑うことが重要だという。知り合いのアメリカ人は、「アメリカ人にもユーモアのセンスはあるが、自分を笑う能力ではイギリス人にかなわない」と言った。

1980年代前半から90年代半ばにBBC で放送された風刺番組「Spitting Image(うり2つ)」をご存じの方もいるだろう。王室や政治家を醜くカリカチュアした人形が登場する政治風刺、社会風刺の人形劇だ。この番組にたびたび登場して(させられて)いた労働党の大物政治家は、この番組が始まると、喜々としてテレビの前に陣取り、自分を揶揄する場面を見て、腹を抱えて笑い転げていたと書いている。このエピソードを聞くだけで、わたしはこの政治家を「器の大きい、信用できる人だ」と感じる。

自分の欠点や失敗を笑うのは難しい。最初は小さいことから始め、自分にちょっとした失敗や不幸が起こったときに、それを同僚や友人に「オレ、こんな失敗しちゃってさぁ」と話してみる。最初は自分を笑うことができないかもしれないが、日々の訓練を積んでいくうちに、大きい欠点でも笑えるようになる。やがて、自分の劣等感や不幸を見つけたら、「しめた!」と思えるようになってくる。

おそらくこれから先、大きい不幸が襲うだろう。老いさらばえ、病気になり、やがて死がやってくる。大きな不幸に立ち向かうためには、日々自分を笑う努力を重ね、そういう不幸をも笑えるほど人間的に成長しておかなければならない。だから、貧相だ、落ち着きがない、ピアノが下手だ、妻に叱られるなどは、簡単に笑えるはずだ。そういう欠点を無数に持っているのを喜べるはずだ。

(お茶の水女子大学名誉教授 土屋賢二 構成=梅澤 聡 撮影=若杉憲司)