JXホールディングス相談役 
西尾進路 
1940年、東京都生まれ。64年、慶應義塾大学経済学部卒業後、日本石油入社。主として経理畑を歩く。2005年、新日本石油社長に就任。10年、JXホールディングス会長に就任。12年より現職。

写真拡大

私は、もともとそれほど読書家というタイプではありません。そんな私が、運命的に出合った一冊が司馬遼太郎の『菜の花の沖』という小説です。

1999年、日本石油と三菱石油が合併した年のことです(合併後、日石三菱となり、のちに新日本石油と改名)。当時、石油産業は石油製品の輸入自由化の影響等もあって、収益面で大変苦しい状況にありました。

今、振り返ってみれば、99年は石油需要が天井を打った年となりました。当時は、自分たちがまさに分岐点の只中にいるなどとは思いませんでしたが、化石燃料による環境問題に対する世界の目も厳しさを増しており、いずれ石油需要が落ちるだろうことが容易に想像できるような閉塞感がありました。だからこそ、当時のトップが合併に踏み切ったわけですが、日本石油に入社して以来ずっと経理・財務を担当していた私も数字を通して状況を認識していました。マーケットを主導するには規模を拡大することが必要なんだなと、あれこれ思いをめぐらせつつ合併を迎えました。

64年に私が入社したとき、エネルギー源としての石油需要は世界で70%以上を占めており、他のエネルギーとは比べものにならないレベルでトップを独占していました。

そんな古きよき時代に石油業界に飛び込んだ者としては、「今までのように、ただ目の前の仕事を懸命に達成していればいいという時代ではなくなった」と感じ、何か気持ちの「よりどころ」はないものかと考えるような日々でした。

そんなある日、旧三菱石油出身の経理担当者とお酒を飲んだときのこと。彼が大変な読書家だとわかりました。そこで私は、彼に「何か面白い本、あるかね?」と尋ねてみたのです。「どういう本が読みたいのですか」と聞くから、「痛快物かな。とにかく気持ちがスッキリするものがいい」と答えました。

彼が最初に勧めてくれたのは池波正太郎の『鬼平犯科帳』シリーズでした。東京生まれの私にとっては、江戸の風物や食べ物の話はそれなりに興味深く、しばらく没頭しました。

次に推薦してくれたのが中国物。『三国志』や『水滸伝』等スケールの大きな歴史・冒険物です。しかし、毎日少しずつ読み進めるため、登場人物の中国名がすんなり入ってきません。ページを遡って確かめるのが少々煩わしく、途中で断念することも少なくありませんでした。

それを伝えたところ、彼が改めて勧めてくれたのが司馬遼太郎の本です。これが面白かった。池波正太郎が市井の名もない人々を描いているのに対して、司馬作品は幕末や日露戦争等を舞台にした英雄が主人公の作品。その歴史観を批判したり、史実との違いを指摘する人も少なくありませんが、私はそういうことはどっちでもよい。とにかく読み物としての魅力を存分に楽しみました。

さまざまな司馬作品を読んだあと最後に推薦してもらったのが、この『菜の花の沖』だったのです。

実は合併前、取締役経理部長だった私には通勤用の送迎車がついていました。しかし、合併による経費節減で、送迎車の数も1+1=2とせず、合計で1社分に大幅カットとなりました。ポストの下のほうから車を取り上げられ、私もその対象となりました。通勤の足を失って、これが本当の「失脚」かと1人で笑ったものです。

そこで、バス通勤を始めました。自宅近くに、ほとんど始発同様に乗れるバス停があったからです。席には必ず座れましたが、会社最寄りのバス停は33番目にあたり、時間にして1時間半ほどかかります。

同僚に勧められた本を読んだのは、すべてこのバスの中です。そして、高田屋嘉兵衛の生涯を描いた『菜の花の沖』も、その一冊となりました。

嘉兵衛は江戸時代後期に活躍した商人です。瀬戸内海の淡路島で貧農の子として生まれた嘉兵衛は、故郷を追われるようにして去り、船乗りとして苦労を重ね、ついには自分の船を持って商人として大成功するのですが、私が感銘を受けたのはそんな出世物語の部分ではありません。

惹きつけられたのは、主人公高田屋嘉兵衛の人間性なのです。たとえば開拓精神。嘉兵衛は当時蝦夷地と呼ばれていた北海道や千島への困難な航海に積極的に挑んでいます。

また、他人、特に配下のものたちに対する優しさ。船頭として最下級の船員に至るまで細かく心を配っています。商人としてどんな相手も差別しない姿勢も素晴らしい。当時、差別と搾取の対象でしかなかったアイヌの人々に対しても、良質の品を適正価格で売っています。

大火で職を失った人に仕事を与え、飢饉があれば食糧を原価で売る。施しはしないが搾取もしない。農耕や魚の養殖の指導なども含めて本当の意味で社会に利益還元をしています。

いつの時代においても、我々人間が「できるならこうありたいものだ」と望む理想の姿に何度も出合えたのです。まさにあっという間にページをめくっていきました。

嘉兵衛は晩年、日露関係のトラブルに巻き込まれます。国後島近くでロシアの軍艦に襲われ、人質としてカムチャツカで1年近い歳月を過ごす。しかし、捕虜の身でも人としての誇りを保ち、艦長に対しても、信義を重んじつつ裸の気持ちでぶつかったため友情が芽生えた。互いに言葉がカタコトでありながら、です。艦長は後世に残した手記に「高潔な日本人」「かれの度量の大きさが知れるにつれ、彼に対する私の尊敬はいよいよ高まった」と記しています。

しかも、人質なのに幕府に代わり、外交さえ果たしてしまう。結果、ロシア艦長をして「(野蛮国だと思っていた)日本国は堂々たる国家だ」と認識を改めさせました。まさに一流の国際感覚の持ち主です。

1人の人間として裸でつきあえば、国籍や文化に関係なく信頼関係ができ、人と人はつながることができる。こんなところは、現代の社会や政治、ビジネスにおける問題を考える際にも大いに参考になるのではないでしょうか。

当時の私自身、彼のようにはなれなくても、せめて「こうなりたい」と心がけて生きていけたなら、少しはよくなるんじゃないか──そう考えると本当に気持ちがすっきりしたものです。

バス通勤は結局、1年弱で終わりました。この本が通勤バスの中で読んだ最後の一冊となりました。会社にとっても自分にとっても曲がり角のような時期で不思議な縁で出合った本です。以後、部下をはじめ多くの人にこの本を勧めましたが、みな面白かったと言ってくれます。

2010年、私の仕事人生で2度目の大きな合併がやってきました。4月1日、新日本石油が新日鉱ホールディングスと経営統合し、JXホールディングスが発足。JXグループは連結売上高で約10兆円、従業員2万5000人の規模を持つ事業グループとなっています。2020年には、国内の1次エネルギーに占める石油の割合が、30%台にまで下がると予測される今、スピーディな事業革新や海外展開が求められています。(※雑誌掲載当時)

前回よりさらに厳しい時代における合併で、まずやらなくてはいけないのは「人の融和」です。同じ方向に向かう一つの企業体の人間として、きちんとつながり、目的を共有して働いてもらわなくてはならない。

そんな今だからこそ、『菜の花の沖』を読み返してみようと思っているところです。きっと再び、晴れやかな気持ちで現実に立ち向かう力を与えてくれるのではないでしょうか。

※すべて雑誌掲載当時

(小山唯史=構成 大沢尚芳=撮影)