ホテル・リスボア。1999年に中国に返還される前は、唯一の大型賭博場だった  (Photo:©Alt Invest Com)

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 はじめてマカオを訪れたのは、ポルトガルから中国への返還(1999年12月20日)を控えた90年代末だった。当時はまともなホテルはリスボアくらいしかなく、「東洋最大のカジノ」といわれてはいたものの、賭博場にいるのはやさぐれた感じの中国人ばかりで、照明を落とした廊下には疲れた顔の娼婦が徘徊し、ラスベガスの華やかさとはほど遠い、退廃といった言葉がぴったりの場所だった。

 大航海時代の面影を残すマカオの歴史地区も、2005年に世界遺産に登録される前は観光客も少なく、マカオのシンボルである聖ポール天主堂跡も人影はまばらだった。この天主堂は、往時は「東洋一」といわれた壮麗な教会だったが、火災による消失で建物正面の壁面だけが残っている。その荒れ果てた姿が、歴史の流れに置き去りにされた街を象徴していた。

 マカオ市街から車で10分ほどのところにドッグレース場がある。7〜8頭のグレイハウンドが、ケーブルから吊り下げられたウサギの模型を追って走るだけだが、小銭を賭ける庶民の娯楽として親しまれている。観客席の入りは2割ほどで、レースが終わっても歓声もため息もなく、誰もがたんたんと次の“犬券”を買いにいく。ためにしいくらか買ってみたところ、見事一着になり、「ビギナーズラックって本当なんだ」と感心したことを覚えている。

 それから15年ぶりにマカオを再訪した。話には聞いていたが、あまりの変貌に仰天した。

わずか5〜6年で一大観光リゾート地が誕生

 最初に断わっておくと、私はギャンブルにはほとんど興味がない。パチンコなどと同じく、期待値で考えれば胴元が(長期的には)確実に儲かるようにできているからだ。

 もちろん知識としては、ブラックジャックのカードカウンティングで胴元を出し抜けることは知っているが、いまさらその技法を習得しようとは思わない(カードカウンティングについては、ベン・メズリック『ラス・ヴェガスをブッつぶせ』(アスペクト)をどうぞ)。

 ギャンブルに興味を持てないもうひとつの理由は、阿佐田哲也や森巣博といった先達がいるからで、いまさら私が博打について書いたところでなんの価値もない。

「カジノ」というのが典型的なカタカナ英語で、海外ではまったく通じないと指摘したのも森巣博だった。Casinoの「si」が濁音になることはないし、「i」が強調されるのだから、「カシーノ」(より正確には「キャシーノ」)と表記すべきだ。森巣は一貫して「カシノ」と書いているがまったく定着せず、いまでも「カジノ」という日本人しかわからないカタカナ英語が使われている。そこでここでは「賭博場」で統一する。

 マカオの賭博場が大きく変貌したのは、返還後、経済振興のため中国政府が本土からの観光客の渡航制限を徐々に緩和したこと(2005年に原則自由化)と、ホテル経営に外資の進出を認めたことだ(2002年)。これによって、膨張する中国マネーを目当てに外資系ホテルの進出が相次ぎ、大規模な不動産開発が行なわれることになる。

 とくに大きく様変わりしたのは、マカオ半島の南にあるタイパ(Taipa)島とコロアネ(Coloane)島だ。かつては零細な漁民と海水浴客しかいなかった島の間を埋め立て、マカオ半島との間に3本の橋をかけ、フェリーターミナルと国際空港を新設した。この埋め立て地がコタイ(Cotai)地区で、ホテルとショッピングセンター、賭博場を併設した巨大な建物が次々とつくられた。なかでも観光客に人気なのはヴェネチアンで、ビルのなかに運河が走り、そこにゴンドラを浮かべてヴェニスの街並みを再現している。

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