神戸製鋼所社長 
佐藤廣士 
1945年、大分県生まれ。県立杵築高校卒。70年、九州大学大学院修士課程冶金学専攻修了。同年神戸製鋼所に入社。技術開発本部材料研究所長、技術開発本部開発企画部長を経て96年取締役、2003年専務、04年副社長就任、09年4月より現職。同じ山本兼一氏の著書『火天の城』『利休にたずねよ』も読破したという。

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私が社長に就任したのは、2009年4月。当時、わが社はリーマンショックによる世界的な大不況の波を受け、溶鉱炉の火を止めるかどうかの瀬戸際まで経営が悪化していた。いったいどこから手をつければいいのかと困惑するほどだった。

そんなとき、岡山県津山の刀匠・安藤広清氏から社長就任記念に見事な日本刀をいただいた。実はこの刀、当社の溶鉱炉から出てきた銑鉄でつくったものという。

本来、日本刀は、銑鉄から炭素を人工的に取り除いた「鋼」でつくられる。ごくわずかしか取れない一番いいところを使うわけだ。それ以外の銑鉄は不純物が多く、鍋・釜など鋳物に使われる。そんな銑鉄が刀匠の腕ひとつで素晴らしい刀に生まれ変わったのである。ボロボロの煎餅から滑らかなうどんをつくるがごとく、ほとんど不可能に近い技。難しい条件下でもオンリーワンを生み出す技は、社長の重責を負ったばかりの私にとって大きなヒントになった。

そういえばと思って、以前に読んだ『いっしん虎徹』を再び紐解いた。虎徹といえば、江戸時代の刀工として名を馳せた人物。新撰組・近藤勇の名刀も虎徹作といわれる。もともと、新潟の甲冑師だったが、泰平の続く徳川時代に甲冑の需要が激減して、刀鍛冶に転向する。厳しい修業、数々の苦労を重ねて、当代きっての刀匠に上り詰める。虎徹は、鉱石を取るところから始まり、たたら(今でいう溶鉱炉)にこだわり、ふいご(風を送り出す器具)で炭素を抜いた鉄を鍛え上げて名刀に仕上げる。最初から最後まですべての工程を他人に任せず、自らの手で極めていくのだ。

虎徹の生き方には学ぶべきことが多い。第一に、鉄源、炭、泥など、原料に関する知識が極めて深いことで、これは鉄鋼業界の人間にとっても不可欠なものだ。

第二に、非常に高い目標を掲げていること。「世の中にない日本刀をつくってやる」と断言し、敢然と立ち向かっていく。

第三は、目標に向かって進んでいく向上心、執念、情熱、しつこさだ。

第四は、甲冑から刀へと時代の変化を見極め、大きく舵を切る柔軟さ。その一方で、将軍家お抱え刀鍛冶の誘いを断るなど職人としての意地は捨てていない。時代に柔軟に合わせながらも、自分の思い通りに最高のものをつくりたいという軸はブレていないのだ。

こうした虎徹の生き方に、私は「不易流行」の精神を学んだ。変えるべきは変え、変えるべきでないところは変えない。まさに私が目指す経営と相通じる。社長就任後、現場を精力的に回っているが、神戸製鋼グループの現場にも、虎徹のように「極める」姿勢を大切にする技術者が大勢いる。機械加工を極めた虎徹もいれば、溶接を極めた虎徹もいる。

不易流行で、変えてはいけないのは、この「極める」姿勢だろう。原料は時代や価格の変動によって変わってもいいが、材料を加工して製品に仕上げるところは、不易なのだ。

私は「ものづくり推進部」を新設し、現場の「虎徹」たちに光を当て、埋もれさせない仕組みづくりを進めている。わが社の「虎徹」たちの技をグループ内で共有するのが目的だ。

「虎徹」たちが現場で率先して指南役を務めれば、職場は活性化する。経営的にも、歩留まりや生産性の向上、在庫の削減につながるだろう。

虎徹の刀は、その優れた切れ味から「血に飢えている」と評されたこともある。神戸製鋼が飢えているのは、次世代を切り拓くオンリーワンの製品だ。必ずや現場の「虎徹」たちが応えてくれると思う。

※すべて雑誌掲載当時

(斉藤栄一郎=構成 芳地博之=撮影)