いまだに何が得意で何が不得意かがわからない

仕事とは? Vol.84

映画監督 阪本順治

大作映画『北のカナリアたち』監督・阪本順治氏が明かす新人時代の苦い思い出


■スタッフは監督の指示のまま動くもの。1作目はそんな感覚だった

映画『北のカナリアたち』の舞台は北海道の離島。礼文島や利尻島などで真冬と真夏合わせて約3カ月のロケを行い、冬と夏の体感温度差は60度にものぼりました。過酷な自然の中での撮影は計画通りには運びません。厳しいロケでしたが、撮影には木村大作さんという名うての「船長」がいて、僕は「航海士」。おかげでのびのびとやらせていただきました。

もちろん、最初に監督のお話を頂いた時は不安もありました。東映60周年記念の大作で、主演の吉永小百合さんをはじめ俳優さんたちもそうそうたる顔ぶれ。スタッフを含め初めて一緒に仕事をする方たちも多く、正直、足がすくみました。でも、今回に限らず、「できるのかな? 俺」というスリルがある方が面白い。自分の中で一回こすったものだとあまり興味がわいてこないんです。

『北のカナリアたち』はメインの俳優さんたちのキャリアもベテランから若手、オーディションで選ばれた子役までさまざま。演出はそれぞれの俳優さんの個性にもよりますが、ベテランならある程度お任せしています。若手なら僕の独断で指示することが多いですが、相手に違和感があればとことん話し合いますよ。

映画監督というとカメラの横に立って指示を出している姿を思い浮かべるかもしれません。でも、演出は映画監督の仕事の半分で、残りの半分はさまざまな個性を持った人たちをひとつの家族のように束ねていくこと。俳優さんたちだけでなく、スタッフのコンディションにも目と耳をきかせながら采配をしていくのが僕の仕事です。細かい話ですが、風邪をひいているスタッフがいれば薬を持って行ったりもしますよ。そうすれば、たちまち僕のファンになってくれます。いやらしいやり口ですけど(笑)。ただ、みんなの健康状態は自然と目に入るんです。

今でこそスタッフを気遣えるようになりましたが、初監督作『どついたるねん』(1989年公開)を撮った当時は違いました。スタッフは監督の指示のまま奴隷のように動くものだというおごった感覚があったんです。助監督時代には自分も現場の苦労を味わったはずなのに、監督になった瞬間に忘れてしまった。それに、初めての監督作で自分のことだけで精一杯。余裕がありませんでした。

『どついたるねん』が評判になり、2作目の『鉄拳』(1990年)ではすっかり天狗(てんぐ)になっていましてね。今思えば、周囲は憤懣(ふんまん)やるかたない思いをしていたのでしょう。クランクアップ後の打ち上げで、身近なスタッフに殴られ、「みんながどういう状態で、どんな気持ちで無理な撮影をこなしたのか。そこをわからないと監督は務まらない」と叱られました。文字通り痛い目にあって自分の間違いに気づいたんです。

映画の制作には多くの人がかかわっていますから、1日撮影が延びるだけで制作費が数千万円単位で上がることもあります。限られた期間で映画を完成させるためには、スタッフが疲れているからといって撮影のペースを落とすわけにはいきません。徹夜が続くことだってあります。ただ、同じ強行軍でも監督がみんなの様子に気づいているか眼中にないかで、現場の雰囲気はガラリと変わるものです。


■「やりたい」「なりたい」ではなく、「やる」「する」と決める

大学在学中から映画の撮影現場に出入りするようになり、『どついたるねん』でデビューしたのは30歳の時でした。僕は「30歳で映画監督になる」と決めていて、その1年前から周囲にも「助監督をやめます」と話していました。お金に困りながらも、ひとりしこしこと企画を練ってボクシング映画を撮ることにして。脚本もないのに以前から好きだった元プロボクサーの赤井英和君を訪ねて「一緒に映画を作りませんか」と口説き、映画プロデューサーの荒戸源次郎さんのところに企画を持っていったんです。

荒戸さんは映画界の風雲児と呼ばれる人物で、独自性のある映画を手がけていました。僕は「荒戸さんなら必ず協力してくれる」と疑わず、最終的にはその通りになりましたが、後に荒戸さんは率直におっしゃってますよ。「私はやりたくなかった」って(笑)。というのもボクシング映画というのは石原裕次郎さんをはじめ往年の大スターがみんなやって、興行的に成功していないんです。しかも、当時はアイドル映画全盛期で『どついたるねん』のような泥臭い映画は求められていなかった。でも、僕はお構いなしで自分の作品は世に出ると決めつけていました。

そもそも映画監督になると決めたのは高校時代。当時の僕は理想が高過ぎたんでしょうね。理想の自分と現実のギャップに悩み、「自分は誰からも認めてもらえない」と登校拒否を繰り返していました。何をやってもすぐに投げ出してしまうくせに、物事がうまくいかないのを人の責任にして心を閉ざしていたんです。このままでは将来どんな職業に就いても成立しないんじゃないかと暗澹(あんたん)たる思いでした。どうすればいいのか自問自答を繰り返した挙げ句、はたと気づいたんです。何かをやるときに「やりたい」ではなく、「やる」と決めちゃえばいいんだって。その時に子どものころから漠然と憧れていた映画監督になることにしたんです。

それからというものの僕の人生に「挫折」の二文字はありません。映画監督になりたいと望んでなれなければ挫折するでしょ。でも、なると決めたら、50歳、60歳になろうがなるまでやり続ければいい。行動するのみで悩みがないんです。何事も「やりたい」「なりたい」ではなく「やる」「する」と決めたら気がラクになりますよ。

映画監督になって20年あまり。20作以上の映画を撮ってきましたが、自分で企画を考えて脚本を書き、演出した作品もあれば、ほかの人の企画に乗ったものもあります。デビュー当初は自分のやりたいものをやると突っ走っていましたが、多分、やりたいことって自分ひとりではそんなに思いつかないものなんですよ。ある作家に「君の映画は自己模倣だね」と批判され、最初は腹が立ったんですけど、その通りだなと思いました。作品ごとに形やストーリーは変えているけれど、俺の生理はいつも一緒だなって。それで、これからはほかの人の開発した企画にもどんどん乗っていって、自分の生理とほかの人の生理もかけあわせてやっていこうと決めたんです。

以来、「自己模倣をしない」というのを不文律にしてきました。映画作りを建築だとすると、ひとつの家を建てたら、次はもう1回壊して更地にして建て直す。上に建て増ししてはいけないし、横に広げてもいけない。必ず何もないところからやろうと。だから、僕はいまだに自分が何が得意で、何が不得意かわからないんですけど、どの作品にも必ず自分のカラーは出ます。いくら自分の生理にこだわらずいろいろな作品を撮ろうと思っていても、監督として今のシーンがOKかNGかを判断する基準は、結局のところ僕が気持ちいいと感じるかどうかですから。

逆に、新たなものを作り続けるには、自分の中にぶれない、失わないものを持っておかなければいけない。ほかの監督と同じものができましたというんじゃ、僕のやる意味がありませんから。映画監督の場合、何が映画作りの根本になっているかというと、思春期に経験したり感じたことだと思うんです。それがその人の生理になっている。故・深作欣二監督は中学生時代に戦後の闇市で遺体を処理した記憶が作品の中心にあるとおっしゃっていたし、僕にしても思春期に自問自答したことが、当時はぐちゃぐちゃだったけど今の根っこになっています。大人になる前に何を経験し、そこでどう自分に向かい合ったか。もがいて、自分が何を拒絶し、何を受容してきたかを知っている人ほど根っこがしっかりしていて、ものを生み出すことに向いていると思います。