古来から、主に口伝で伝承されてきた奇術“手妻”をご存知でしょうか。今の言葉で言うところの手品やマジックにあたるものですが、手妻は現代のそれとは比べ物にならないくらい大掛かりな仕掛けと華麗な振舞いで演出され、1997年5月24日には文化庁長官により「記録作成などの措置を構ずべき無形文化財」として選択無形文化財にも登録されました。
 今回、本の情報を扱うインターネット番組「新刊ラジオ第2部」では、手妻の数少ない継承者で、『天一一代―明治のスーパーマジシャン』(NTT出版/刊)で手妻の伝統を書きつらねた藤山新太郎さんにインタビューを行いました。本記事では、その後半をお送りします(前半はこちらから)。

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―“手妻”の発展に大きな功績を残した松旭斎天一(しょうきょくさい・てんいち)という人物について、ご著書に書かれていますが、天一とはどのような人物だったのでしょうか。

藤山「今となっては、過去に売れた芸人さんですから知っている人は非常に少ないと思うんですが、明治時代の始めから終わりまでの四十四年間は、日本で松旭斎天一という芸人を知らなかった人は一人もいなかった程だそうですよ。天一さんは、西洋奇術をとにかく早くから覚えて、まずそれで名を成した人なんです。

明治時代に入ると、大きな劇場がどこの町にもできるようになりましたが、当時、マジックが劇場に上がることはとても難しかったんです。舞台に上がるということは、一日4時間の興行で一週間は打つことになりますから、それだけ人が集らないことには興行は務まりません。それを天一さんは、歌舞伎座での興行や、天覧興行(天皇の前での講演)、また、井上馨、西郷従道、伊藤博文、李鴻章など、著名人に呼ばれたりもしていましたから、それはもうすごい人気を博していました」

―多くの西洋奇術師がいる中で、なぜ天一の芸はそれほどまでに高い評価を受けたのでしょうか。

藤山「当時、西洋奇術を取り入れていた奇術師たちは、どのように演じていいかわからなくて、今までの流れに沿って適当にやっていたんですよ。言うならば、手妻のスタイルで西洋奇術をやっているにすぎなかったんですが、それを天一さんは完全に西洋風に仕立て上げたんです。燕尾服やフロックコートをこしらえて舞台で着たり、西洋奇術で使われる大道具仕入れてきたり、楽隊を用意してトランペットやアコーディオンを演奏したり、当時としては誰もやっていないようなことを見せたんです。

また、もともと天一さんは芝居心のある人でしたから、奇術をいくつか集めてストーリー性のある芸にしていったわけですね。劇場で4時間も興行を打つということになると、花を出したり、鳩を出したりする単発の奇術では人を惹き続けることはできません。ですから、ストーリーを持たせながら話を膨らませていく興行を作っていったんですね。それで大変に人気が上がっていったわけなんです」


―松旭斎天一の芸人としてのルーツはどこにあるのでしょうか。

藤山「天一さんは福井の侍の家に生まれましたが、幼いうちに家が断絶して、追われるように家を出てからは本当に貧乏したんだと思いますよ。その後、父親の末弟がやっている寺でやっかいになるんですが、これは大変だったらしいですね。

天一一家を引き受けることになりましたから、そもそも貧しかった寺が一層貧しくなってしまい、食べ物にも事欠く毎日だったらしいですね。ところが、天一は感謝するどころか悪戯三昧で、お寺の屋根に上っては天照大神のお札を撒いたりしたんですよ。村の人は天から札が降ってきたと思って、“それー! ええじゃないか、ええじゃないか”といって、村中でええじゃないか踊りが起こる始末だったらしいです。そのうちに首謀者探しが始まると、すぐに天一が捕まってひどく怒られたらしいですよ。

その後あまりに悪戯がすぎるということで、寺からは勘当されてしまうんですね。天一は旅一座に入って、そこで覚えたのが“刀の刃渡り”でした。天一は人の聞き伝えで、“刀の刃は真上から載ると切れない”ということを耳にして、旅館にあった刀を借りて試しに乗ってみたそうです。すると噂どおり切れなかったもので、さっそく昼のうちに町に出て、刀を二十本ほど買い込んできたんです。そして、梯子の段のところに刀を並べて、そこを段々に上がっていくという芸を、その日のうちにやってみるんです。その日の夜には、もう客呼んで、いきなりお金を取ったそうですね。

四国の田舎町ですから、客は“刃渡りの師匠だ”とびっくりして、天一は、一躍刃渡りの師匠という扱いですよ。しかも、刃渡りだけじゃ寂しいからといって、手品師集めて、一座をこしらえて四国を回り始めたんです。いきなり太夫ですね。これがまだ十代の頃の話です」

―すさまじい行動力ですね。では芸人としての転換期というか、高みに上がるきっかけとなるような出来事といえばどのようなことでしょうか。

藤山「当時、帰天斎正一さんという芸人がいて、大阪の中座で一ヶ月もの期間、奇術の興業を打って連日大入りを果たしていたんですよ。中座の舞台というのは、二十代の天一さんにはとても上げてもらえないような場所です。その舞台で帰天斎さんが何をしていたかというと、天一さんと同じ西洋奇術師でした。しかし、圧倒的な人気の理由となっていたのが、本場・西洋奇術師の口真似だったんです。“テジナ、タネミル、ヨロシクナイヨ”と、片言の日本語が大当たりして、興業を打てば大当たりを繰返していたんですね。

また、内容も新しい西洋奇術をたくさんやっていて、それに衝撃を受けた天一は、すぐに帰天斎正一に接触するんです。帰天斎正一さんからはずいぶんたくさんのタネを倣ったそうです。お金を払ったんでしょうね。恐らくこの時は金がなくて困ったと思いますよ。大物を相手に座敷に上げてご馳走して、相手の言い値で道具を仕入れるわけですから、いくら稼いでもスッカラカンになっていたと思いますよ。

それでも帰天斎さんにくっついていって、ようやく天一は、一座でかなり良いレベルでショーを張れるくらいの立場に立ったんです。しかし、これで帰天斎正一を超えられるかというと、結局、道具も人間性も外側見て真似をしてるだけだということに気づいたのでしょうね。真似をしている限り、それ以上にはいけないし、自分の心の中から本当にやりたいものを考え出さない限り、天一は天一でありえないわけです。どうもそのへんを明治の十数年代に気がついて、大転換をしたんじゃないかと思います」

―それは日本の伝統的名芸能の倣い方としては正しい手順を踏んでいるように思います。模倣から始めて忠実に守って、殻を破るという。一人の奇術師の人生としては大変面白いですね。

藤山「そうですね。天一さんという人は、芸の道を歩いて、本当に大きくなるためにどうしたらいいか、大物になるためにどうしたらいいかとういことを真剣に考えて、答えを出してきた人なんですよ。そのことのために、一生懸命に稼いだろうし、人をたくさん使って動いただろうと思います。その効果があって、明治二十年くらいになるともう天一以外は、ずっとレベルの下がった芸人で、天一だけが飛びぬけて大きい奇術師になっていったんです。江戸時代から続く手妻と、新しくできた明治の西洋奇術とを合体させた興業は、天一さんの人生そのもので、日本中の大劇場を回って、最晩年の明治44年まで大入りを繰り返したんですね」

(Podcast番組「新刊ラジオ第2部@プレミアム」今週のスゴい人のコーナーより)