山田隆道の幸せになれる結婚 (3) 結婚式をやる意味と、その必要性

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近年、結婚式をやらないカップルが増えているという。

従来の慣例的な結婚式及び披露宴の開催は、そのカップル(特に新郎側)にとって大きな経済的負担であり、この大不況の折では不承不承ながら断念せざるをえない事情があるのだろう。

また、その決断を正当化するためか、あるいは真の理念としてそう思っているのかは定かではないが、そもそも「結婚式などという、そんな面倒くさい行事をわざわざやる必要もない」と煙たがる人もいる。

本来、結婚は役所に書類を届けることで成立するものであり、したがって法的には別に必要不可欠なものではない結婚式という風習を費用と労力がかかるだけの、いわゆる旧弊のひとつとして認識しているということだ。

彼らにとって結婚式は、ただの思い出作りと自己満足にすぎないナンセンスなイベントなのだ。

もちろん、結婚式の開催は個人の自由である。

様々な事情から開催を断念するカップルについて、どうこう意見する立場に僕はいない。

それは二人が決めることだ。

ただし、結婚式という風習は旧弊のひとつだ、あるいは費用と労力がかかるだけのナンセンスなイベントだと主張するなら、それに関しては真っ向から否定したい。

男と女が互いの生涯を誓い合い、それを今までお世話になった方々に披露する儀式なのだ。

人間は誰しも一人では生きていけない、多かれ少なかれ誰しもが他人に支えられて生きてきた、そういう人間としての常識を深く認識しているなら、人生の節目に親戚・友人を招き、これまでの感謝と今後の決意を表明することは当然の礼儀である。

したがって、連載タイトルでもある「幸せになれる結婚」を叶えるためには、最低限の結婚式は必要だと僕は考えている。

それは決して新郎新婦の思い出作りや自己満足のディナーショーではなく、夫婦になるということの責任を噛み締める儀式としてだ。

もっとも、だからといって莫大な費用のかかる結婚式を無責任に奨励しているわけではない。

この厳しいご時世だ。

ない袖を無理に振っては、新婚夫婦の今後が危ぶまれる。

しかし、それならば費用はできるだけ抑えて、そのかわり二人の労力をかけるというのはどうだろう。

儀式の会場なんてどこでもいいから、二人でせっせと招待状を手書きし、今までお世話になった友人・知人・その他の関係者を招く。

そして、そんな人々を可能な範囲で心からもてなし、これまでの御礼と今後の誓いを述べるわけだ。

ここで大切なのは二人の門出のために、多くの人々を巻き込むということである。

そうすることによって、特に新郎は自分自身に大きなプレッシャーがかかることだろう。

「わざわざ時間を割いて参加・協力してくれた方々のことを考えると、今後何があっても簡単に別れることはできないぞ」という決意と覚悟、すなわち夫婦としての責任感が自ずと芽生えるということが、結婚式の一番の意味と効能だと思うのだ。

実際、僕も自分の結婚式のとき、多くの友人・知人に協力を仰ぎ、VTRを格安で製作してもらったり、パンフレットやウェルカムボードをほぼ無償で作ってもらったり、とにかく祝儀の名目をフル活用した。

言わば、友人・知人たちに貸しを作ったようなものだ。

だからこそ結婚式のあと、僕は友人の一人に「俺たちにここまで協力させておいて、もし奥さんを泣かすようなことがあったら、袋叩きにするぞ」と厳しい叱咤まじりの激励を受けた。

なるほど、おっしゃる通りである。

自分のために多くの人々を巻き込んだからこそ、僕は自分の責任の大きさを感じ、襟を正す思いになれたのだ。

あれから1年半がすぎ、これまでの結婚生活の中で僕らは何度も激しい夫婦喧嘩を繰り返し、それによって自分の中に漠然とした不安が芽生えたこともあった。