あなたの会社は「プラグマティズムの精神」を失っていないか

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ビジネススクール(経営学の専門職大学院)では企業の具体的なケースを教材にして討議するケースメソッドが用いられている。この教育スタイルの普及によって研究面では3つの変化があったと筆者は説く。

■医者・市会議員も!ビジネススクールの今

1990年前後から、ビジネススクール(経営学の専門職大学院)は、大都市を中心に開校数が増えてきた。その数は定義しだいで若干違うが、現在では30校を超えるスクールが活発に活動するに至っているようだ。

私も、神戸大学の経営学部で、社会人大学院という名前だったが、そのビジネススクールを開設するに伴い、89年に神戸大学に移り開校以来の一部始終を経験した。89年当初は、社会人大学院に自分から希望してやってくる奇特な学生はおらず、企業にお願いして社員のなかから若手を派遣してもらっていた。大学院担当の先生方は、会社回りをして、学生募集の協力を求めた。会社としても、有望な若手社員を、2年間休職扱いにして大学院に通わせるのだから、よほど余裕のある大会社にしかできない。当時、景気は良かったのだが、それでも住友銀行(現・三井住友銀行)とか日本生命、サントリー、ダイエーといった理解のある企業は限られていた。それら企業の協力の下、大学院のゼミを一つ余分に開講するというくらいの規模でスタートした。

大きく変わったのは、10年ほど経って、平日昼開講をやめ、土日・夜開講に切り替えたときからである。「誰でも学ぶことができるビジネススクール」を目指した。そのときから会社派遣の学生は激減し、自費で自分の時間をひねり出す、意欲のある実務家が来るようになった。東京や広島、岡山から、ビジネスパーソンばかりでなく、医者や歯医者、さらには市会議員まで、経営学の勉強に神戸六甲の山腹にあるキャンパスに夜あるいは土日に駆けつけてきた。

■なぜケースメソッドで学ぶべきか

意欲ある人が学生となって、ビジネススクール、ひいては経営学・商学の教育現場は大きく変化した。第一に、授業において、企業の具体的なケースを教材にして討議するという教育・学習スタイルが入ってきた。ハーバード・ビジネススクールが元祖となる教育法の、ケースメソッドのやり方だ。もともと、法律の教育において判例をめぐり、その是非を討論するというやり方があって、それを真似てできた教育スタイルといわれる。

その教材には、新聞記事や雑誌記事を資料にした簡便なやり方から、教員がみずから取材して作成した本格的ケース教材までさまざまあるが、具体的な会社の具体的な取り組みをめぐって、クラス全員で、その問題や課題を明らかにし、最終的にこれからどうすればよいのかというところにまで踏み込んで検討しあうのだ。テレビで、ハーバード大学のマイケル・サンデル教授の白熱授業を見た方なら、「ああ、あれか」とわかっていただけるだろう。もっとも、あれほど多くの学生を、あれほどうまくコントロールして、討議を運営できる力を持っている人はそんなにいるわけではない。が、今ではビジネススクールの先生は、「ああいうふうにうまくやれるように」と思いながら、いろいろやり方を工夫している。

そうした相互交流型、具体的問題解決型の教育スタイルが普及してくるとともに、研究面でも変化が生まれた。ケース研究というものが、研究の一つの有力手段となった。教材を作らないといけないというのが喫緊の課題になったことが大きい。慶應がいち早く、ハーバード・ビジネススクールの持っているケース教材を日本語に翻訳したり、独自に日本企業のケース教材を作ったりしていたので、それを利用することができたのは大きかった。しかし、やっているうちに、「自分が知っているこの企業の取り組みの面白さを学生たちに伝えたい」とか、「このコンセプトを学生たちと議論するためにこんなケースが必要だ」と思い始める。そして、自分でケース教材を作りたくなってくる。私も、そんなこんなで、多くのケース教材を作ってきた。私自身の情報感度が高まったことが大きい。経営者やマーケターの話を聞いても、「これ、ケースになるな」なんてことも考えるようになった。

ケースの意義としては、要するに、そのケースに登場する主人公が抱えた問題を自分の問題として考える中で、理論に血肉を与えて使いこなせるようにし、今まで気がつかなかった、経営を見る多様な新しい視点を知ること、これが「ケースで学ぶ特典」だ。

それとともに、第二に、研究スタイルも次第に変化する。それまでは、文献研究か、商業統計や有価証券報告書といった二次資料を用いた統計分析、あるいは経営者に向けた質問票調査くらいしかなかった研究レパートリーに、「現場の当事者の視点から、現場を深く知る」という研究スタイルが加わった。具体的にはインタビュー調査や観察調査、方法として言えば社会構築主義がそれだ。具体的な経営の現実を、どのように理解するかに研究者の力が移ってきた。

教育と研究における変化に加え、第三に、「その理論あるいはケースが、自分たちの人生や社会や組織に役に立つか立たないか?」の視点、つまり「実践の視点」が入ってきたことが大きい。「役に立つ」といっても、企業の意思決定への役立ちに狭く限定する必要はない。社会にでも、自分の人生にでもいい。いずれにしろ、先生が理論を説明しても、「それは、いったい、私たちに何の意味があるのか」という設問がぶつけられるようになった。偉い先生の理論かどうかや、その理論がいかに精緻でエレガントであるかは関係なく、その理論が現実において、どのような意味を持つのかが問われ始めた。日本の社会科学の教室に、プラグマティズムの姿勢が入ってきたのだ。それは、教室の古くからある秩序を破壊し、新しい秩序の構築を促す。以上の議論を整理すると、図のようになる。

■学者を甘やかさない関西の土壌とは

以前から、関西の学者は鍛えられているという印象が強い。東京では、私などにもときどき、「先生、鞄をお持ちしましょう」という声がかかって驚くことがある。当地では、学者は敬され遇されている! だが、大阪ではそんな声はまずかかってこない。学者を特別視しない。よって、学者が高邁な話をしても、「先生の話、理屈はそうかもしれませんけど、それ、いったい、なんぼのもんですねん?」という質問が返ってくる。英語で言えば、“So what?”か。「先生」という言葉は使ってくれてはいるが、使っても減らなければ何でも使うのが大阪精神。決して尊敬の言葉ではない、と考えておくのがここでは大切だ(笑)。いわば痛烈な皮肉に、関西の学者は鍛えられる。しかし、厳しいように見えても、「プラグマティズム」の精神から見れば健全なやり取りだ。関西発プラグマティズムは、学者を甘やかさない土壌をつくってきた。

アメリカ発であれ関西発であれ、教室にプラグマティズムの思想が入ることで教室は根本から変化する。では、ビジネス社会では、どうだろうか。ビジネスは、プラグマティズムの権化のはず。よって、ビジネス社会に、「それ、いったい、なんぼのもんですねん?」と問い質したいモノやコトなど、なくなっていて当然のはずなのだが……。

(流通科学大学学長 石井淳蔵=文)