作家
童門冬二
1927年、東京生まれ。東京都広報室長・企画調整局長・政策室長などを歴任。79年、作家活動に専念。人間管理と組織運営の要諦や勘所を歴史と重ね合わせた作品で、99年春、勲三等瑞宝章を受章。

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光あるところに陰あり。名将いるところに参謀あり。表舞台に決して立たず、情報の収集と分析で集団を勝利へと導く群像たちの実像とは――。

■バルチック艦隊をなぜ撃破できたのか

では、私が、参謀として優れていると考える歴史上の人物を紹介しよう。

まずは、秋山真之である。日露戦争の日本海海戦で、ロシアのバルチック艦隊を撃滅させた作戦の立案者だ。

なんだ、有名人じゃないか――。参謀は名を秘すに、反しているじゃないか――。そう感じられる読者もいると思うが、それは違う。

司馬遼太郎が『坂の上の雲』を書くまで、秋山は世間では知られざる存在だった。それを、司馬遼太郎が資料を丹念に発掘して、秋山真之に光を当てたのである。それまで、日本海海戦勝利の立役者は、連合艦隊司令長官の東郷平八郎だった。秋山は、その陰に隠れていた。

作戦参謀として秋山に課せられた使命は、バルチック艦隊を撃滅するというものだった。40隻に及ぶ大艦隊は、ヨーロッパを経ち、遠路ウラジオストック港を目指していた。港に、戦艦や巡洋艦の1隻でも入港させたら、以後日本海での日本軍の輸送は危機にさらされ、中国大陸での作戦遂行ができなくなる。

秋山がバルチック艦隊をウラジオストック港に1隻たりとも逃げ込ませないために立案したのが、「七段構えの戦法」である。第一段は、駆逐艦と水雷艇による夜間奇襲雷撃である。第二段は、翌日昼間の連合艦隊を挙げての砲撃。第三段は、その夜に追撃の雷戦。第四段は、翌日の昼間にバルチック艦隊の残存勢力を追撃。第五段は、さらに夜間の追撃雷撃。第六段は、昼間連合艦隊でウラジオストック港付近まで追撃。第七段は、ウラジオストック港付近に敷設した機雷地域にバルチック艦隊を追い込む。

この七段構えのうち、実際に行われたのは、第二段から第四段までだった。これで、バルチック艦隊は全滅したからだ。もう1つ、秋山が考案したのが「丁字(ていじ)戦法」だ。連合艦隊がバルチック艦隊の目前で大回頭し、敵艦隊の頭を押さえ、逃さないようにするものだ。「東郷ターン」として、今日では知られている。

これらの優れた作戦を考え出したこともさることながら、秋山が見事なのは、自分は東郷平八郎の頭脳の一部分であることに徹したことだ。秋山が練った作戦案のなかで、どれを断行するかは東郷が決断した。

これほど参謀と将が、その役割を立派に果たした例はないだろう。秋山は、東郷が日本海海戦に死を賭して臨んでいたことを知っていた。東郷も、秋山が命がけで脳漿をふりしぼり、作戦を立てていたことを知っていた。その厚い信頼の下で、作戦はつくられ、実行されたのだ。

秋山真之に僅かばかりでも功名心があれば、東郷平八郎は参謀として秋山を信用しなかっただろう。海戦に大勝利しても、その功績は東郷だけのものとなった。

なぜ、秋山はああまで無私でいられたのか。

私は、秋山が松山(愛媛県)に生まれたことが影響しているように思う。松山は今なお儒教と俳句の町である。秋山も祖父、父から儒教の教えを叩き込まれていた。儒教は、孔子や孟子に遡れば、「軍人というのは護民官で、国民を守るのが仕事」という精神につながっている。そこには、天から命じられた職という意識が強い。秋山も、私利私欲ではなく、天命と受け取っていただろう。

さらに、明治の日本人は、外国から最新の知識や技術を学びながらも、日本流にアレンジして取り入れていた。和魂洋芸(才)である。俳句が盛んなことでもわかるように、松山は和魂を大切にする風土だ。秋山も、海外で得た知識を自分なりにこなしたうえで、作戦立案に活かした。だからこそ独創的な作戦が生まれた。

国のために力の限りを尽くして作戦を練る。その後は、将の決断を信頼して任せる。理想的な参謀の姿が、ここにある。

■信玄、秀吉を陰で支えた戦国群像

戦国時代のように、世の中が動乱のなかにあるときは、名参謀と称される人物が数多く登場する。だが、前述のような参謀の条件を満たしている人物は、意外に少ない。本当は、もっとたくさんいたのだろうが、「参謀は匿名を旨とする」を守った名参謀ほど、歴史に名を残していないからだ。

そのなかで、私は次の2人こそ、名参謀の名に値すると考えている。武田信玄に仕えた武田典廐(てんきゅう)(信繁)と、豊臣秀吉に仕えた豊臣秀長だ。2人とも、将の弟に当たる。

しかし、2人とも「弟」という立場を鼻にかけたことはなく、むしろ補佐役に徹している。まさに、「功はすべて兄のもの」ということで、目立たない存在だ。

武田信玄の父である武田信虎は、嫡男である信玄より、弟の典廐を寵愛した。だが、典廐は、子供のときから信玄に尽くし、成人すると「信玄公は兄ではない。主人だ。あくまでも忠義な家臣としてお仕えするのだ」と家臣たちに告げている。

実際、常に信玄の陰で支えとなり、武田軍が最大の窮地に陥った第四次川中島の戦いで、討ち死にする。典廐が残した99条の「武田信繁家訓」は、「甲州法度之次第」として、武田家臣団の心得となった。

片や、豊臣秀長は、兄秀吉の及ばないところを、カバーし続けた人物だ。秀吉は「ニコポン」と呼ばれるやり方で、現場の人たちの人気を集めた。肩をポンと叩いて「今晩、1杯やらないか」と誘い、「今日は、おまえの子供の誕生日だろう。これを持ってけや」とニコッとやるのだ。

調子のいい兄に対して、弟秀長は相手を優しく取り込むようにして、人望を得た。しかし、決して兄を立てることを忘れなかった。

秀吉が手を焼いていた四国の長宗我部元親と、九州の島津義久を、実際に降伏させたのは秀長である。そのとき秀吉は、京都の聚楽第にいた。

秀長が率いた10万の豊臣軍といっても、直参は僅かで、実態はいろいろな大名軍の寄せ集めだった。その軍勢を率いて、遠く四国や九州に遠征しなければならないのだから、苦労は並大抵でない。秀長の人柄、人望がなければ、成功はおぼつかなかっただろう。しかし、秀長は、戦功はすべて兄秀吉のものとしている。

武田典廐といい、豊臣秀長といい、実に立派な参謀ぶりである。武田信玄には山本勘助、豊臣秀吉には竹中半兵衛という、「スター参謀」がいたが、本物の参謀は典廐であり、秀長であった。

■「天下布武」「安土」「岐阜」の名付け親

織田信長には参謀らしい参謀は見当たらない。秀吉をはじめとした家臣はいたが、信長の頭脳の一部となるような人物はいなかった。それだけ、信長は自分を頼るところが強かったのだろう。

しかし、例外的に参謀の役目を果たした人間がいた。禅僧の沢彦(たくげん)である。

信長がまだ「うつけ」と呼ばれていた若かりし頃、教育係だったのが、織田家家臣の平手政秀である。その政秀が諫死した際に、信長はその死を悼んで、政秀寺という寺を建てた。このときの開山が、沢彦だ。

沢彦は、信長の1級資料である『信長公記』にさえほとんど登場してこない。私流の言い方をすれば、名を秘すことに成功した名参謀だ。

沢彦が名参謀なのは、その匿名性だけでなく、信長に天下平定の大目標を与えたことにある。バトルではなくウォー全体を見渡し、ウォーの目的、ウォーの後に実現すべきことを、信長に具申しているのだ。

沢彦は、中国の故事に通じていた。信長が美濃国を治め、稲葉山に城を築くとき、その地名を「井の口」から「岐阜」に変えるよう進言している。これは、中国で王の範とされる周の武王に倣ってのことだ。武王は「愛民の政治」を行い、孔子や孟子からも高く評価されている。

その武王が、暴君だった殷の紂王を倒して、周の国を興したのが岐山というところだ。「周の武王が岐山より起こり、天下を定む」と中国故事に言われる。

つまり、沢彦は、信長が稲葉山城を拠点とするに当たって、その地名を「岐阜」とすることで、「あなたは、日本の武王をめざすべきです」と示したのである。城の名前も、稲葉山城から岐阜城に変えた。

ちなみに「岐山」としないで、「岐阜」としたのは、「山」では周囲からの反発が強まるので、「阜(丘の意味)」から始めようという配慮からだ。

美濃国井の口を岐阜と改名したことで、信長はここから天下平定に乗り出すことを、内外に明らかにしたといえる。

さらに重要なのは、沢彦が「天下布武」という考え方を、信長に授けたことだ。信長は、岐阜の地で、「天下布武」という印鑑を使用するようになる。それだけ強く、この思想に共鳴したということだ。

「天下布武」とは、「天下に武政を布く」ということだ。これは、武力によって天下を平定することと取られがちだが、真の意味はもっと深い。

「武」とは、武力、武器を意味するだけでなく、戦いを止(や)めることも含まれている。「武」という文字は、まさに「戈(ほこ)を止める」と書く。

周の武王が、武力で殷を滅ぼした後、愛民の政治を貫いたことも、沢彦は信長に話したはずだ。武王の思想には、次のようなものがある。

・不戦、非戦、嫌戦の姿勢を保つ。
・紛争の解決は、つねに譲歩と話し合い。
・民衆に対しては徳による政治を行い、敵地にもこの徳を及ぼして同化する。

これらは、信長が長く考えていた理念と一致した。意外かもしれないが、信長は決して戦好きではない。このあたりにも、沢彦の影響が見られる。

沢彦は僧侶だから、人を殺すような戦いを良しとしない。やはり平和な世の中をつくりたい。その実現を、信長に託したのだ。後年、信長の居城となった安土城の名前にも、信長の心情が読み取れる。

「安土」とは、「平安楽土」の略なのだ。平安楽土の実現、いってみればユートピア思想が、信長の根底にはある。早くこの国を平和にして、民たちが安心して豊かに暮らせるようにしたい。それが、信長の政治理念だった。

信長は学問嫌いだから、代わりに沢彦が多くの書物を読んで、信長に言い聞かせた。それも、エッセンスだけを伝える。いわば、100ページの本から、最も大切な1行だけを抜き取って、信長に示すのだ。勘の良い信長は、その1行からすべてを見通した。

「天下布武」についても、多くは語らなくても、信長は真の意味について理解しただろう。「平天下」という言葉があるが、

「日本を平らかに運営する」ということだ。信長は、「天下布武」によって、「平天下」を実現させようと考えていた。

信長が美濃・尾張の1地方大名にすぎない頃に、沢彦は天下人としての理想を教えたということだ。そのことが、織田信長を日本有数の英傑までに育てたのだ。

※すべて雑誌掲載当時

(作家 童門冬二 構成=樺島弘文 撮影=小倉和徳 写真=武田神社(武田二十四将図)、近現代PL/AFLO(秋山真之)、春岳院(豊臣秀長)、AFLO(岐阜城))