『心が折れても、あきらめるな!』(金本知憲著/学習研究社)
金本知憲 1968年4月3日生まれ。広島市出身。広陵高校、東北福祉大学を経て、1991年ドラフト4位指名で広島カープに入団。1995年:ベストナイン受賞。2000年:史上7人目の“トリプルスリー”(打率3割、本塁打30本、盗塁30個)達成。FAにより2003年阪神タイガースに移籍。18年ぶりの優勝に貢献。2006年4月9日“連続フルイニング出場”世界記録達成。2012年9月12日、引退表明。

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金本、阪神やめるってよ。

昨日昼過ぎ、Twitterのタイムラインに流れた一文。でも、最初はまた何かのネタだろうと思った。なぜならつい2ヶ月ほど前の週刊誌で「まだまだこれから」と将来への展望を語るアニキの姿があったからだ。

「今シーズン中に歴代ホームラン9位(486本・大杉勝男)を狙いたい。そしていずれは500本。そのために、目の前の1試合をこなすだけでなく、トレーニングを積んで右肩の怪我を治し、さらにベースアップしたい」
「肩さえ回復すればもっといいバッターになれる自信がある。チームに必要とされる限り、常に上を目指す」
(週刊ポスト2012年7月6日号)

だが、結局この肩のケガが引退の引き金になった。
「肩を壊してからのこの3年間はみじめ、自分がみっともなくて……」と引退会見で涙ながらに語るアニキは見ていてこちらが辛くなった。
金本知憲、44歳。プロ21年間の通算成績は歴代7位の2532安打、同8位の1517打点、同10位タイの474本塁打(成績は9月12日現在)。間違いなく、球史に残る偉大なアニキである。
その輝かしい足跡を、『金本知憲 心が折れても、あきらめるな!』と『覚悟のすすめ』の2つの著書から振り返ってみたい。


【少年時代】本当は「アニキ」じゃない! 末っ子・知憲
球界だけでなくファンからも「アニキ」と慕われる男、金本知憲。でも、実は4人姉弟の末っ子として、1968年に広島で生を受けた。

“末っ子といえば、両親からあまやかされてきたと思われるかもしれないけど、金本家にかぎっては逆だった。姉や兄とけんかをすると、「あんたが悪い!」と、必ずぼくが頭ごなしにしかられた。ふり返れば確かに、だいたいぼくがけしかけたけんかだった”(『心が折れても、あきらめるな!』)

そんなやんちゃな末っ子だったアニキ少年が育った70年代は地元・広島カープの黄金時代。山本浩二、衣笠祥雄、江夏豊といったレジェンドたちが集う「赤ヘル軍団」の中でも、アニキは三村敏之選手のファンであったという。
後に広島カープに入団し、監督となった三村氏にしごかれることになるのが、なんとも運命的である。


【広陵高校時代】好奇心で進学先が決定!
高校は私立の名門・広陵高校に入学するのだが、その経緯がなんとも面白い。

“広陵高校が、広島地区で初めてマークシート方式の入学試験を始めたようにおぼえている。その「マークシート」というものが見たくて、ぼくは、A高校だけでなく、広陵高校も受験することにした”(『心が折れても、あきらめるな!』)

ほかにもっと入学したい野球の名門校があったにもかかわらず、お茶目な好奇心から広陵高校に進学してしまうアニキ。ここで3年間しごかれるものの、残念ながら甲子園への出場はかなわなかった。
この頃にはプロ野球選手になると心に決めていたアニキは大学進学を決意するのだが、学校側の不手際でセレクションを受けることができず、浪人生活を余儀なくされる。そして一浪後、紆余曲折を経て、東北福祉大学・野球部の門を叩くことになる。


【東北福祉大学時代】骨折しながらのヒットで大学日本一に
当時の東北福祉大学は、2つ上に大魔神・佐々木主浩、1つ上には後に阪神でチームメイトとなる矢野輝弘、同級生には後にメジャーで活躍する斉藤隆がいた黄金時代。そこでもまれたアニキは4年生にして大学日本一の座を獲得する。しかも、自らのタイムリーヒットが決勝点となるのだが、このヒットが、ケガをしながら打ったなんともアニキらしい一打なのだ。

“ぼくは手首の痛さを忘れて、思い切りボールをたたいた(中略)結局、これが決勝点となり、東北福祉大学は初めて大学日本一に輝いた。試合後、病院に行ってみると、右手首を剥離骨折していた。決勝点をたたき出したヒットは、骨折した手で打ったものだった”(『心が折れても、あきらめるな!』)

この頃からすでにアニキイズムが始まっていたのだ! そしてその秋、アニキは地元広島カープから4位でドラフト指名され、念願だったプロ野球選手となるのである。


【広島カープ時代】トラウマ克服からはじまった連続出場記録
アニキの代名詞といえばやはり「連続フルイニング出場」。
広島時代の99年7月21日に始まり、06年4月9日に大リーグのカル・リプケン氏を抜く904試合の世界記録を樹立。10年4月18日に途切れるまで1万3686イニング続いた。

「ケガと言わなければケガじゃない」「無理だと思ってもやってみればできる」「ケガは試合で治す」という数々のアニキ名言が生まれるほど、ケガを乗り越えながら達成した偉大な記録である。
だが、そもそもアニキは身長の割に線が細く、実はケガをしやすい選手だった。そこから変貌を遂げ、ケガをしても出場し続けるようになるのは、広島カープ時代の苦悩が大きく影響しているという。

レギュラー獲得を目指し、1軍でも4本の本塁打を放った2年目のシーズンが終わった後の秋のキャンプ。ここでケガをしたアニキは休みを申し出るのだが、「ケガをしているやつらはいらん」と当時の三村監督に言われキャンプから強制帰郷。そのレッテルは翌春のキャンプになっても変わらず「秋にケガしたやつは一軍のキャンプに参加させるわけにはいかない」と2軍行きを命じられる。さらに翌1994年のシーズン開幕前のオープン戦でもまた負傷。「おまえの代わりなんか、なんぼでもおるぞ!」と激高され再び2軍落ちを味わうアニキ……

“少々のケガなら口に出すのはやめよう。右手が使えないなら、左手で振り切ればいい。足を痛めて満足に走れないなら、走らなくてもすむようにホームランを打てばいい”(『心が折れても、あきらめるな!』)

度重なるケガや不運を繰り返したことで、結果としてケガに負けない「アニキスタイル」ができあがったのである。
やがて名実共に広島カープの主軸となったアニキは、2000年には史上7人目となるトリプルスリー(打率.315、本塁打30本、盗塁30個)を達成。広島だけでなく球界の顔となり、03年、FA宣言によって阪神タイガースに入団することになる。


【阪神タイガース時代1】進化し続けるアニキの打撃改造と肉体改造
阪神入団1年目の03年シーズン、アニキはいきなりチームを18年ぶりのリーグ優勝に導く原動力となる。しかし、個人成績はカープ時代よりも下がっていた。

“とくに、ホームラン19本という数字は自分でも許せなかった。いくら広い甲子園といっても、少なすぎる。とはいうものの、甲子園をホームグラウンドにしているかぎり、30発以上打つのは、このままでの打ち方では困難だった。レフト方向に強い打球が打てなければ、あの広い、しかも強烈な浜風が吹きつける甲子園ではホームランを増やすことはできない”(『覚悟のすすめ』)

こうして、36歳にして打撃改造に取り組み始めるアニキ。果たして、翌04年シーズンには自己最多の34本塁打をマークし、初の個人タイトル(打点王)も獲得。さらに翌05年シーズンには40本塁打の大台に乗せ、優勝とシーズンMVPを獲得することになる。30代後半にして、充実の時を迎えるアニキ。実は、若い頃から30代後半を見据えてスポーツジム「アスリート」で肉体改造に努めていたという。

“昔から、野球選手は歳をとるのが早すぎると私は感じていた。ほとんどの選手は30代後半になると思うように動けなくなってしまう(中略)人間は年齢を経れば体力が衰えるのは当然だから、それはある程度しかたがないことなのだが、私はその期間を少しでも短くしたいと考えていた”(『覚悟のすすめ』)

事実、アニキの成績のピークは36歳〜40歳の30代後半の5年間なのがスゴいの一言(5年平均で打率は3割を超え、ホームランは通算158本(平均31本)、打点は通算539(平均107)打点)。これほどの大器晩成も珍しいだろう。

肉体改造とともに忘れてはならないのが、やはり「ファイテン」。アニキといえばファイテン、ファイテンといえばアニキ! と言っても過言ではないほど、ファイテンによる体メンテナンスを心がけているイメージがある。そこで調べてみたところ、『ファイテンの謎』という本の中で、なんとアニキ自身がファイテンについて語っている記述があった。
ファイテンの効果は?と聞かれたアニキの回答は……
「正直、わからん(笑)。効いてるのか効いてへんのか、そんなん、ようわからん(笑)」

そんな素直なところも、アニキが愛される由縁だろう。


【阪神タイガース時代2】アニキのアニキたるエピソード
近年のアニキはケガの影響もあり、バッティング以上に守備面で苦闘する姿が数多く見受けられた。そんなアニキを支えたのがショートの鳥谷であろう。「ショフト鳥谷」と揶揄されながらも懸命にチームのため、アニキのために奮闘し、今や日本一のショートとも呼び声高い鳥谷について、アニキ自身が語る場面がある。

“ふだんは若手を叱ったりすることはめったにない私ではあるが、一度だけ、鳥谷を名指しで叱ったことがある。2007年のシーズンだった。理由は、「全力疾走を怠った」からである”
若手に厳しいアニキ。しかし、これも愛情の裏返しだ。
“鳥谷は、これからのタイガースを背負っていく選手である。そんな鳥谷が気を抜いたプレーをしているようでは、信頼をなくしてしまうし、そういう態度がチーム全体に波及しかねない。だからこそ、あえて叱った”(『覚悟のすすめ』)

チーム全体を想って一人の選手を厳しく叱れることこそ、チームリーダたるアニキのらしさだろう。
また、そんなチーム愛は裏方への心配りにまで表れている。06年のオフ、契約更改において提示された年俸からなんと5000万円を「裏方の人たちの待遇改善に使ってほしい」と申し出ているのだ。これは、バッティングピッチャーやトレーナーなど自分たちを陰で支えてくれる人たちへの感謝の気持ちであるとともに、裏方の人にもタイガースというチームへの愛情を感じて欲しかったからだという。
そもそもタイガース入りする際にも、当時の星野仙一監督に次のように問いただしている。

“私がタイガースにいちばん聞きたかったのは、「とりあえず1回優勝すればいいのか、それとも将来的にずっと強いチームにしていきたいのか」ということであった。それまでのタイガースは、関西での人気が絶大で、「勝てなくてもお客さんが入るから、優勝しなくてもいい」という雰囲気があった。実際、私にもそう感じられていた。だから、ほんとうに優勝したいと思って私を獲得しようとしているのか確認したかった”(『覚悟のすすめ』)

一回きりの強さではなく常勝軍団を目指すために、裏方にもプロフェッショナルの仕事と、それに見合う評価を求めるアニキの姿勢が、結果としてAクラス常連の今日のタイガースを築くことになったのであろう。


『金本知憲 心が折れても、あきらめるな!』『覚悟のすすめ』の2冊の著作には、他にも様々なエピソードや野球への想いが語られているので、ぜひ一読いただきたい。最後に、その著作の中から、今のアニキの心境ではないか、という一文があったので紹介したい。

“これまでの私のプロ野球人生は、踏まれては顔を出し、また踏まれては顔を出すという、繰り返しだった。その結果、知らず知らずのうちに我慢強くなっていた。考えてみれば、人生の転機にはいつも「覚悟」があった”

人生最大の「覚悟」で引退を決めた金本知憲選手。残り1ヶ月となる最後の勇姿を、我々も覚悟をもって見守って行かなければならない。
(オグマナオト)