サウサンプトン対マンU。画面に現れた映像は、香川がボールに絡んだシーンばかりだった。その惜しいプレイを中心に編集されていた。続いて画面に現れたのはインテル対ローマ。だが、これもほぼ長友のプレイに終始した。マンUは香川がベンチに引っ込んでから逆転。インテルはホームでローマに1―3で敗れた。にもかかわらず、女性キャスターはそれを喜々とした声でそれを伝えていた──。
 
 先ほど公共放送から流れていたスポーツニュースの話だ。欧州でプレイする日本人は、増加の一途を辿り、いまや20人以上を数えるに至った。だがここで紹介されたのはわずか2人。その他の選手はどうしたと言いたくなる。
 
 結局、欧州サッカーのコーナーは、香川と長友の話だけで終了した。欧州サッカーそのものの情報は、ほぼゼロに等しかった。
 
 十年一日の如くのスタンスだ。中田英や小野が欧州でプレイしていた頃ならいざ知らず、日本のサッカーのレベルが当時より大きく上がった今日でも、その調子に変化はない。出場したことを喜ぶだけ。日本人選手万歳と言いたがっているだけのようにしか聞こえない。世界から隔絶された辺境の地に暮らす田舎ものに成り下がったような、いたたまれない気持ちになる。
 
 それはダルビッシュの投球と、イチローの打席を伝えることだけに終始するメジャーリーグの報道スタイルとほぼ同じだ。しかし、野球より個人競技としてのテイストがはるかに低いサッカーにその方法は適していない。不自然だ。局面局面で止まるスポーツと、常に流れているスポーツとの違いも輪を掛ける。
 
 さらにいえば、日本人選手以外に対する好奇心でも、欧州サッカーファンはメジャーリーグファンに勝っている。なにより潜在的な外国通の人数に違いがある。現地で観戦したことがある人を比べれば一目瞭然。日本人が1人も出場していない試合や大会にまで足を運ぶサッカーファン、海外の試合をまさに身近なものとして捉えているサッカーファンは、野球ファンより断然多い。
 
 サッカーファンには、そもそも世界と接する機会が多く与えられている。高慢な言い方をすれば、少なからず世界性を兼ね備えている。それと香川、長友だけを大写しにして終わるスポーツニュースとの差はあまりにも大きい。お粗末というか、超低レベルなものに見えてしまう。
 
 各国のサッカーのレベル(サッカー偏差値)は、それぞれを構成する要素(選手、監督、メディア、ファン、協会、審判……)を平均したものになる。そしてそれぞれは相殺される関係にある。足を引っ張り合う関係にある。均される運命にある。選手のサッカー偏差値が60あっても、その他の要素が50ならば、その国のサッカー偏差値は52〜53になってしまう。
 
 実際、日本選手のレベル(サッカー偏差値)偏差値は、右肩上がりを続けている。10年前より数ポイント上がっている。マンUでプレイする選手が誕生したことは、それを象徴する出来事のひとつになるが、代表チームへの期待もその分だけ高まる。
 
 監督の采配次第では、過去最高位も狙えると踏んでいる。他国の伸び悩みもそれに拍車を掛ける。いつかも述べたが、スペインがW杯とユーロを3大会連続制覇したことは、その他の国の停滞を意味する。いま世の中に、強そうに見える国はあまりない。これまで決定的な開きがあったW杯の第1シード国にも、競った試合を望めそうなムードを感じる。チャンス到来。日本の状況を一言でいえばこれになる。
 
 そうした期待感高まる中で、旧態依然とした世界性の低いスポーツニュースを見せられると、腹立たしささえ覚える。選手の高いレベルと、それを報じる側のレベルとは、釣り合いの悪いものに見える。足を引っ張るものに見える。敵は外ではなく内にありと言いたくなる。
 
 そうこうしていると、その香川に対して地元メディアはチーム最低の5という採点を下したとのニュースをネットで確認することができた。
 
 心配になるのは、香川よりそれを伝える日本のメディアだ。香川が5ならこちらはそれ以下になる。採点を地元メディア任せにし、十年一日の如く日本人選手万歳と言い続けるメディアの方が、はるかに情けないものに見える。
 
 繰り返すが、日本サッカーにはいまチャンスが到来している。選手が掴んだその芽を、周囲は大切に膨らませていく必要がある。選手が5でもメディアは7。あるべき姿はこれだ。でないと、日本のサッカーのレベルは上がらない。日本のサッカー偏差値は上がらない。僕はそう思う。