高津臣吾、野球の見本市のようなキャリアを終える|野球史
キャリアSTATSを作り、眺めることを趣味とする者にとっては、実に作り甲斐のあるキャリアの持ち主だった。
高校時代は野手、亜細亜大学では小池秀郎の控えだったが、ヤクルト入団後はシンカーを覚えて野村克也に重用され、リーグを代表するクローザーとなった。
すでに250セーブをあげて、この時点で名球会入りの資格を得ている。
しかし2003年、35歳の時にMLBに挑戦した。
翌年はニューヨーク・メッツ=NYMとマイナー契約を結ぶが、シーズンを通じてAAAでなげ、ロースターが40人枠に広がった時点でMLB昇格。好投するも契約はできなかった。
38歳でヤクルトに復帰、2年間投げるが自由契約。
普通であればこの時点で引退するだろうが、高津はシカゴ・カブス=CHCのキャンプ招待選手に、しかしMLB昇格はできず解雇、韓国野球KBOに挑戦、さらに再びMLBに挑戦し、サンフランシスコ・ジャイアンツ=SFとマイナー契約。しかしMLB昇格を果たせなかった。
さらに翌年、42歳で台湾リーグと契約。しかし1年で契約打ち切り。
翌年からBCリーグ新潟で投げる。そして2012年には新潟で監督兼任投手となったのだ。
44歳になり、実績も上げた。思い残すところはないだろうが、できれば今季1試合だけでも投げてほしい。