科学技術「へー」な話




科学技術の発展は人類を大きく進歩させました。それは無数の努力、発見を積み上げた結果です。しかし人間のやってることですから、それにまつわる「へぇ」なエピソードは尽きることがありません。そのほんの一部をご紹介します。







■できたものは違っていた



電話の発明者として知られるアレクサンダー・グラハム・ベル(1847年〜1922年)はもともと電話を作ろうとしていたのではありませんでした。ベルはろう者のための教育を熱心に行った人で、ろう者のために何かできないかと考え電信の改良に取り組んで……結果、電話ができました。



ちなみにベルはヘレン・ケラーの元にサリバン先生を送りこんだ人でもあります。



■そもそもベルじゃなかった!



電話の発明者はベルと一般には知られていますが、実はそうではありません。アントニオ・メウッチ(1803年〜1889年)が発明者でした。彼はイタリア人で、1854年ごろに最初の電話を完成させていたと言われます。



1876年にベルが特許を取った時には、これを提訴しました。1887年にベルの勝利で裁判は終了。メウッチは不遇の内に死亡します。以降、ずっと電話の発明者はベルとして知られてきましたが(イタリアを除く)、2002年アメリカ合衆国の決議案が可決し、ようやくメウッチが電話の発明者として認知されるようになったのです。





■飛行機の開発は日本人の方が早かったかも?



近代になると、科学技術の発展、発明はスピードを増します。同じ物を世界の別の場所で同時期に開発していた、なんて話は数多くあります。有人飛行機の開発は、日本人が世界初になるかもしれなかった話を知っていますか?



二宮忠八(1866年〜1936年)は明治時代の人で、飛行機の研究開発に熱心でした。彼は自分の飛行機械を「飛行器」と呼びました。1891年にはゴム動力の「飛行器」の飛行に成功。これは「カラス飛行器」と呼ばれています。



二宮忠八がカラスの滑空を見て思いついたからです。その後、玉虫の形にヒントを得た「玉虫型飛行器」(有人飛行用)の研究を開始し、1893年にはその模型が完成しました。研究開発資金の提供を軍に申し入れますが、却下されます。



失意の二宮は独力で開発を続けることを決意します。しかし、資金を稼ぐために製薬会社に勤務するなど、それどころではなくなったのです。ようやく研究を再開したところにライト兄弟による「有人飛行機の初飛行成功!」が届きました(1903年)。



ショックを受けた二宮は、動力以外は完成していたのに自らの飛行器を壊し、飛行機の開発から去ってしまいました。もし軍が資金提供を行っていたら、二宮の『玉虫型飛行器』の方が、ライト兄弟の『ライトフライヤー号』よりも早く有人飛行に成功していたかもしれません。



ちなみに、二宮から資金について相談を受けたのに却下した陸軍の長岡外史大佐(皮肉なことに後に帝国飛行協会副会長になる)は、後に自らの非を認め、二宮のところまで出むいて謝罪しています。男らしい態度ではありますが「時すでに遅し」でした。





■飛行機は難しい!



飛行機の話をもう一題。二宮忠八を打ちのめしたライト兄弟の『ライトフライヤー号』ですが、本当に飛んだのか? という疑問の声があります。ライトフライヤー号が有人初飛行に成功したのは、1903年12月17日です。



場所はノースカロライナ州のキティホークでした。飛行は4回行われました、4回目の59秒飛行距離259メートル(852フィート)は別ですが、1回目は12秒で約26メートル(120フィート)、2回目は12秒で約53メートル(175フィート)、3回目は約61メートル(200フィート)。



正直、あまり飛んでないなあ、という印象を持つのではないでしょうか。また、実験の日には強風が吹いており、ライト兄弟は向かい風に向かって飛行機を飛ばしました。これにより揚力を得やすくなったはずで、非力な動力(12馬力でした)を補う意味があったと考えられます。



実際、ライトフライヤー号は本当に飛ばすのが難しいものだったようで、ライト兄弟の偉業100周年記念イベント用に作られた復元機は飛行できませんでした。コンピューターのシミュレーションでも大変に飛行特性が悪かったようです。



偶然ですが、先に紹介した二宮の飛行器の動力も12馬力でした。



■雷の危険な実験



ベンジャミン・フランクリンというと米100ドル札に肖像が描かれている有名な政治家ですが、彼は物理学者、気象学者でもありました。雷は電気である、ということを証明するため、嵐の中、凧を上げる有名な実験を行いました。



凧糸にはライデン瓶(1746年に発明された電気をためることができる)という装置が取り付けられました。雷雲から凧に落ちた雷が電気であればライデン瓶に電気が導かれるという仕組みです。フランクリンはこのむちゃな実験によって成功しましたが、その後がいけませんでした。



実験をまねする人が出たのです。感電して2人死んだと言われています。ベンジャミン・フランクリンは自分の生命を守るために十分な準備をし、慎重に実験していたのですが、死んだ人はそこまでまねできなかったんですね。



■自分では使わないけど



自分では使わないのに情熱をかけて技術の発展に取り組む人がいます。ヨハネス・ケプラー(1571年〜1630年)は天文学者で、天体の運行に関するケプラーの法則を考えた人です。天体物理学の先駆者で科学の発展に大きく寄与した人ですが、天体観測のために重要な発明をしています。



『ケプラー型望遠鏡』です。接眼レンズを凸レンズにしそれまでのものより大きな倍率を可能にしました。自身が天文学者などでさぞ役に立ったと思うでしょうが、それが全然なのです。ケプラーは視力が大変に弱かったので、発明はしたものの自分では制作せず使いませんでした。





■誰が珍説だ!



ギリシアの天文学者アリスタルコス(紀元前310年〜紀元前230年ごろ)は太陽が中心にあり、地球はその周囲を回っているという説を唱えました。コペルニクスが地動説を唱える2,000年も前のことです。しかし、アリスタルコスの「太陽中心説」の著作は残っていません。



なぜ、彼がその説を唱えたのかわかっているかというと、アルキメデス(紀元前287年〜紀元前212年)の著作に「こんなことを言ってるのがいる」と珍説扱いで紹介されているからです。またプルタルコス(46年ごろ〜127年ごろ)の著作にもアリスタルコスの説に触れた部分があるようです。



自分の著作が後世に残らず、アルキメデスとプルタルコスによって現在に知られているというのは何とも気の毒というほかはありません。ちなみに、太陽中心説の以前に彼が著した『太陽と月の大きさと距離について』(現存する彼の唯一の著作)は天動説に基づいたもの。



この後太陽中心説へと転向したと思われますが何とも皮肉です。







(高橋モータース@dcp)