セブン&アイ・ホールディングス
会長兼CEO 鈴木敏文
1932年、長野県生まれ。中央大学経済学部卒業後、東京出版販売(現トーハン)入社。63年イトーヨーカ堂入社。73年セブン−イレブン・ジャパンを設立して日本一の小売業に育てる。2005年セブン&アイ・ホールディングスを設立。

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イトーヨーカ堂へ30歳で転職するまで、私は本を売る側の出版取次大手トーハン(当時は東京出版販売)に勤務し、弘報課で「新刊ニュース」という隔週刊の広報誌の編集に携わった。毎日出版される新刊書を読み、内容を簡単にまとめて目録にする仕事を3年間続けた。

新刊書を隅から隅までじっくり読む時間もなく、生来、面倒くさがり屋の私は自分なりの速読術を身につけた。まず目次を見て全体像をとらえる。そのうえで主だったところを拾い読みし、最後を読めば、だいたいの内容をつかむことができた。

新刊紹介の仕事を続けていると、どうしても本を突き放して客観的に見る習慣がついてしまう。日本は年間出版点数では世界トップ級のわりに、「面白いと思える本は案外少ないな」。それが正直な印象だった。

ただ今回、「私のこの一冊」というテーマで何十年間かの読書歴を振り返り、ふと浮かんだのは自分でも意外な本だった。昭和を代表する歴史作家、山岡荘八の代表作『徳川家康』だ。1950年に新聞で開始した連載は実に18年間も続いた。53年から単行本の刊行が始まると、歴史小説で戦後最大のロングセラーとなり、家康ブームを巻き起こした。

特段歴史が好きだったわけでも、家康ファンだったわけでもない。どちらかといえば、自分は家康タイプではないように思う。それでもこの本が浮かんだのは、14年間かけて全26巻が順次刊行されたため、一巻読み終わると次巻が待ち遠しく、出るとすぐ買い、会社でも時間をつくって読んだ記憶があったからだ。

「新刊ニュース」にも著者インタビューで登場してもらった。思い出の一冊とは存外、本そのものより、読んだ当時の気持ちと合わさって浮かび上がるものなのだろう。

一方、仕事上、必要に応じて読む専門書の類はまた別の読み方になる。ここ数年、注目されるのは、人間の心理を考慮しないこれまでの標準的な経済学に対し、心理を重視する行動経済学という新分野の関連書の出版が相次いでいることだ。

なかでも2008年、翻訳出版された『経済は感情で動く〜はじめての行動経済学』(マッテオ・モッテルリーニ著)は、私が日ごろ話している内容と非常に共通しており、事例も多く、初心者にもわかりやすい内容だったため、会社の幹部社員たちに購読を勧めた。これを知った版元が書籍の帯をつくり替え、「本書は、経済は心理学だという私の持論を、見事に解説してくれている」という私の推薦の言葉を大きく載せたりもした。

特に印象に残ったのは、ニューヨークのマンハッタンでは雨の日のラッシュアワー時になぜかタクシーがつかまらなくなるというエピソードだ。原因は運転手の仕事の仕方にあった。雨の日は利用客が多くなる。短時間で売り上げ目標に達するため、いつもより早めに仕事を切り上げてしまう。客が多いのだからもっと長く働けば、より多くの収入を得られるのに、実際はまったく反対の非合理的な働き方をしていたのだ。

この非合理性は次のように説明される。人間は損と得を同じ天秤にかけず、心理的に損のほうを得より大きく感じて、損失を回避する行動をとりがちだ。ニューヨークのタクシー運転手もその日の売り上げが目標額に達しないと、それを損失と考え、より長く働こうとする。しかし、結果的に売り上げは伸びない。一方、雨の日は目標額に達すると損が回避されたと感じ、それ以上、長く働こうという積極的な態度はとらず、結果、大きな機会ロスが出てしまう。

同じことはコンビニの経営についてもいえる。廃棄ロスが気になるオーナーは5個仕入れて5個売れたら、損失が回避されたと安心してしまう。一方、売り切れたということは、もっと多く仕入れていたらより多くの利益が得られたはずだと発想できるオーナーは、次回はより積極的な発注を仕かける。人間は目に見えない利得より目に見える損失に目が奪われがちだからこそ、売り手は保守的な心理から抜け出さなければならないと、私は説くのだ。方、買い手も心理によって判断や行動が左右される。本の中では、こんな例が紹介される。ひき肉の内容表示で「赤身80%」と「脂肪分20%」では同じ意味でも顧客は前者を選ぶ。つまり、人は提示のされ方や表現のされ方によって、選択が変わる。行動経済学でフレーミング効果と呼ばれる現象だ。

これはわれわれが日々店頭で実践していることそのものだ。例えば、スーパーでは一パック500円の刺し身を閉店時間が近づくと、400円に値引いたりする。このとき表示方法が「2割引き」と「お買い得」とでは売れ方が大きく異なる。鮮度が重要な刺し身の場合、「2割引き」と表示すると、鮮度に問題はなくても顧客は「古くなったから安くした」と感じるが、「お買い得」だと背中を押される。これが顧客の心理だ。世界で最も消費が飽和した日本の市場では、顧客の心理を刺激しなければ商品は売れない。そのとき、売り手のほうは顧客に対して積極的な働きかけを行うため、保守的な心理から抜け出さなければならない。不況下こそ、心理学経営が重要ということを、私も『鈴木敏文の「話し下手でも成功できる」〜セブン−イレブン流「感情経済学」入門』という本で実践例をあげながら示した。心理学経営は人事評価にも必要だ。仮に社員の昇給額が平均的には5000円のとき、Aという社員については仕事ぶりを評価して5500円にし、500円の差をつけたとする。しかし、それは評価する側の自己満足にすぎない。セールスのように評価の物差しを明確にできる職種は別として、熱心さや頑張りといった抽象的な部分を何かの物差しではかり、金額に表すことはきわめて難しい。そのため、評価される側から見ると、「なぜ、Aと自分たちは昇給額に500円の差がつくのか」と、容易に納得できない。

人事評価で重要なのは、評価する側の満足ではなく、評価される側に「評価された」と伝わることだ。端的な話、一円でも差は差で、昇給額がみんなより一円でも高ければ、その人は努力が評価されたことになり、一円でも低ければ、その人は努力が足りなかったことになる。これが500円の差になると、「なぜ500円なのか」と、金額の納得性に目が向いてしまう。それが心理だ。商売で顧客の立場に立って心理を読むのと同様に、人事評価では評価される立場に立って心理を汲む。心理学経営の真髄を本の中で解き明かした。

最後に2点ほど、本を読むときのポイントを伝授しておきたい。よく本を読みながら傍線を引く人がいる。

「ああ、そうだな」と自分も同感に思うからで心地はいいだろう。ただ、それは同感する個所をなぞって安心感を得ているにすぎない。同感するのは自分もその考え方に達しているからで、得るものは少ない。いわば、会話で相手の話に相づちを打つようなもので、相づちだけでは深い会話にはならないのと同じだ。線を引くなら、新しい発見があるところに引く。これまでの自分の理解とは異なる意見や自分にない考えにこそ線を引くべきで、これは価値がある。なぜ、そう考えるのか、根拠は何かと突き詰めれば、自分の考えをより発展させることができる。もう一つは、本を読んでも、本のものまねをしないことだ。ものまねは楽なように思えるが、考え方が制約されてしまい、かえって面倒だ。だから私は本から必要なことだけをつかむと、あとは自分で新しいことを考える。だから、線を引く個所はそう多くなくても得るものは多い。面倒くさがり屋の読書術だ。

※すべて雑誌掲載当時

(勝見明=構成 尾関裕士=撮影)