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今見ても古さを感じさせない、古田織部の茶室「燕庵」。その明るく爽やかな魅力は、千利休の「待庵」とは全く違う性質を持っています。
待庵から燕庵へ。たった数十年で茶室は大きく変わりました。その陰には時代の、そしてそれに伴う人々の価値観の変化があったのです。今回はそうした茶室の変化の背景を探ってみましょう。
 
 
taian_toko200_2.jpg茶の湯の実権は町人から武家へ

千利休が活躍したのは、戦国時代の不安定な情勢下でした。当時、彼をはじめ町人出身の実力ある茶人たちは、茶の湯を通じて武家と交流し、政治にまで影響力を持っていました。

利休の茶の湯は「わびさび」の精神に基づいた、清貧の美を追求するものです。彼は同時に「この世の全ては移り変わる。人はみな儚い存在であり、そこに身分の差などない」と説きました。そうした思想を表現する茶室は、必然的に慎ましやかな、虚飾を排した空間となったのです。
いつ誰に裏切られて命を落とすことになるか分からない。そんな緊張感の中で戦国武将たちは、ひとときでも下克上レースから解放されて、「わびさび」的な美の世界に心を遊ばせたいと願ったことでしょう。だからこそ多くの武将が、利休の茶の湯に魅せられたのです。その代表格は、言うまでもなく豊臣秀吉でした。

しかし、利休はその秀吉に切腹させられます。
その後、古田織部は秀吉から「利休の茶は町人風で武士に合わないので、武士にふさわしい茶の湯に改革しなさい」という命令を受けました。織部が選ばれたのは、彼もまた武士だったからです。秀吉は、身分の低い町人が茶の湯を通じて政治に影響力を持つのを嫌って、茶の湯の実権が武士たちに移るよう仕向けたのです。
そして武士による、武士のための新しい茶室空間には、その権力にふさわしい格式を表現することが求められました。社会の秩序を保つために作られた身分制度を肯定するものでなければならなかったのです。そこでは人はみな平等などではありません。
 
 
ennan_shikishi240.jpg華やかで力強い茶室へ
織部は秀吉の命に応え、自分のデザインセンスをのびのびと発揮して新しい趣向の茶室を作り、新しい茶の湯を展開しました。
燕庵では、内装には竹や皮付きの丸太など自然のままの素材が使われ、その配置や組み合わせによって美が生まれています。この点だけ見れば待庵と同じです。
しかし、色紙窓を使って亭主の茶を点てる姿を華やかに演出するなど、「しゃれた格好良さ」を意識していると思われる燕庵から、わびさびという言葉はあまり連想できません。織部の茶はもっとたくましく豪華で、いかにも堂々としていて、華やかなものです(あの有名な秀吉の「黄金の茶室」とまでは、もちろん行きませんが…)。待庵と燕庵とで、その美しさの質は大きく変わっているのです。
 
 

roji.jpg裏切りつつ、受け継ぐということ
織部は、自分が心酔していた利休のわびさびの茶の湯とは違う方向に進みました。利休の茶を頑なに守ろうとする他の弟子には、織部は「時代のニーズに迎合して茶の湯を堕落させた」と映ったようです。
しかし利休は自分の茶のスタイルを、そっくりそのまま誰かに受け継いでもらうことを期待したわけではなかったと思います。彼は型にはまってしまうことを戒めました。むしろ時代の流れの中で変質していったとしても、後世の人たちにはオリジナリティを発揮して、新鮮な驚きのある茶の湯をやっていってほしい。織部もそんな利休の思いを理解し、だからこそ自ら進んで師匠の利休の教えを破っていったのではないかと思います。ある人を尊敬しその道を受け継ぐということは、その人のしたことを全部真似することとは限りません。
 
 
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最後に茶室と「光」というテーマから逸れてしまいましたが、このテーマは今回でおしまいです。
次回からは、同じ「光」でもがらっと雰囲気を変えて、教会のステンドグラスの光について少し考えてみようと思います。