宮台真司(みやだい・しんじ)  社会学者。映画批評家。首都大学東京教授。1959年3月3日仙台市生まれ。京都市で育つ。東京大学大学院博士課程修了。社会学博士。権力論、国家論、宗教論、性愛論、犯罪論、教育論、外交論、文化論などの分野で単著20冊、共著を含めると100冊の著書がある。最近の著作には『14歳からの社会学』『〈世界〉はそもそもデタラメである』などがある。キーワードは、全体性、ソーシャルデザイン、アーキテクチャ、根源的未規定性、など。

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「女子大生ホイホイとしてのプレリュード」「アイドルはみんな聖子ちゃんカット」。80年代に青春を送っていた人には懐かしいワードだが、かつて消費社会が隆盛を極めていた時代はこのように「ああ、それ知ってる!」とみんなでわかり合える共通認識のもとに流行するものがあった。
しかし消費社会が終わりを告げ、みんなでわかり合える“何か”を失ったいま、私たちは社会というものをどこか遠い存在として感じている。この孤独感を埋められる手立てがあるとすれば、それはどのようなものだろうか? 前々回、前回から続く話題の対談、いよいよ完結。

社会がコモディティ化し、モノが輝かなくなった

武田:先日、宮台さんがされていた「クルマが輝かなくなった」というお話が非常に示唆的でした。「むかしクルマは輝いていた。いまはかつての輝きはない」とおっしゃっていました。品質の面でいえば向上していると思われるのに、なぜなのでしょうか?

宮台:それは一般にコモディティ化(粗品化)と呼ばれる現象です。モノは、手元にあるのが当たり前になると、日常の風景に埋没し、輝かなくなるのです。そもそも「輝く」とは「日常における非日常の亀裂」つまり「ケに対するハレ」です。

 クルマに乗る経験が少ないころは、乗り心地やエンジン音のちょっとした新しさが非日常を醸し出しました。クルマが日常化すると、そうした新しさはどうでもよくなり、クルマは目的地に着くための道具になり下がります。

 社会学の[表出性/道具性]という枠組みに重ねると、モノだけでなく、たとえば性の世界にもコモディティ化=道具化が見出されることに気づきます。性が禁圧された時代は、性的なものにほんの少し触れただけで目眩がしました。

 ところが、性が自由になると、性は「快楽の道具」や「相互理解の道具」になり、入替可能になります。「快楽の道具」や「相互理解の道具」は他にもあるからです。性のコモディティ化を、いくつかの要素に分けてみます。第一は〈完全情報化〉。

武田:たしかに私が中学生のころ、性に関する情報源は、いまに比べるとずいぶん少なかったように思います。

宮台:だから「ワケがわからずドキドキした」のです。いまは「すべて事前の情報どおりだった」で終了。第二は〈脱タブー化〉です。かつては、規範の明白な境界が共有されてきました。タブーがあるから、タブー破りの快感もありました。

 たとえば80年代半ばまで、人妻が婚外関係を持つことは、いまよりずっと罪の意識を伴いました。だから盛り上がったのです。いまは不倫も当たり前になり、罪の意識を用いた「言葉責め」も機能しなくなりました。

武田:輝きを失い、興奮しなくなってしまったということですか?

宮台:そう。第三が〈脱偶発化〉です。出会い系サイトや婚活サイトは、年収・身長・学歴・趣味などのスペックへのニーズを元にマッチングされます。自分が最も嫌うタイプの相手を好きになるアクシデントがありえません。すべてが枠の内側で起こります。

〈完全情報化〉も〈脱タブー化〉も〈脱偶発化〉も、ニーズに応じたものです。前回お話ししたように、「ニーズに応じたマーケット・イン」は人々の幸福値や尊厳値を下げます。人の幸福や尊厳は必ず〈未規定性〉とともに与えられるのです。

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