日本政策投資銀行社長橋本 徹(はしもと・とおる)
1934年生まれ。57年東京大学法学部卒業後、富士銀行(現・みずほ銀行)に入行。86年取締役国際審査部長、87年常務、90年副頭取を経て91年頭取、96年会長に就任。2000年富士総合研究所理事長。03年ドイツ証券東京支店会長。11年より現職。

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■米国での極秘交渉 暗号は「ホリデー」

1982年秋、富士銀行(現・みずほ銀行)の国際企画部から、同僚たちに何も告げず、姿を消す。極秘にニューヨークへ飛び、後輩と2人で、シカゴに本拠地を置く金融会社のW・E・ヘラーを買収する交渉を進めるためだった。同僚たちは「橋本は、どうしたのだ」と、ざわついた。妙な噂が流れ出さないように、「長期のホリデーに行っている」ということにしてもらう。

「ホリデー」――これが、そのまま買収作戦の暗号となる。若いころから、洒落が好きだった。これも、その一つだったのかもしれない。

半年近く前、国際企画部の副部長兼オセアニア室長兼米州室長から、ただの副部長になっていた。二度にわたる石油危機で膨張したオイルマネーを取り込み、中南米に貸し込むことが続いていた国際業務を、中南米諸国の経済危機の高まりで見直すことになり、米国への本格的な進出を検討する特命が下りていた。

議論を重ね、米国のコンサルタントが示した4つの選択肢から、米国の中堅企業相手の多様なサービスを扱い、不動産関連の投資など業務が自由に展開できる金融会社を買収する案を選ぶ。まだ、州をまたいでの銀行業務に制限があった時代で、全米を一気にカバーできる道だった。

金融会社の物色を進めていると、ヘラーの売却話が飛び込んできた。ヘラーは上場していて株価は高いが、経営戦略があいまいなので、低めの買収価格を提示したら、株主側が怒った。そのまま太平洋を挟んでの交渉を続けても、うまくいかない。後輩と2人で、ニューヨークの目立たぬホテルに泊まり込む。「ホリデー」の意味は、ニューヨークでも、支店長くらいにしか伝えていない。隠れるようにすごす日々は、47歳になっていた身には厳しかった。

翌春、売り方と原則的な合意ができた。4月には、契約書に調印する。だが、それまでも、それからも、本社とヘラー側との板挟みになることが多く、苦しい日々が続く。米国と日本を何度も往復せざるを得ず、疲れはて、ときに無力感や絶望感にまで陥る。ある日曜日、マンハッタンを歩いていて、ふと、教会に立ち寄ってみた。

子どものころから教会に親しみ、高校卒業とともに洗礼を受けていたが、銀行に入って26年、いつの間にか教会から遠ざかっていた。久しぶりに静かな時間に身を置くと、やがて、神の声が聞こえた。それは、心が空っぽになったときにだけ聞こえ、いろいろ思い悩んでいるときには訪れない。聖書の随所に出てくる「思い悩むな」の教えが、蘇る。心が平安になり、新たな力が湧いてくる気がした。その日から、無心で、買収のとりまとめへ力を傾ける。

「安時而処順、哀楽不能入也」(時に安んじて順に処れば、哀楽入る能わず)――時の巡り合わせを平安に迎え入れ、自然の流れに従っていれば、悲しみも楽しみもないとの意味で、中国の古典『荘子』にある言葉だ。この世のすべてには善も悪もないとして、そんな一時的な是非には惑わされず、大きな観点に立って生きることを説いている。マンハッタンの教会で再来した「無心」の境地から始まった橋本流は、信仰こそ違え、この教えに重なる。

新社長の選考でも、同様だった。東京の面々は「子会社のトップは、親会社の常務以下の権限でいい」としていたが、それでは、応募者が納得しない。ヘラーの客は米国の中堅企業。日本人に、そんな世界の機微が、わかるはずはない。やはり、そうとうの権限を与えるべきだ。どちらが是か非ではなく、当然の理を唱えると、新経営陣に「自治権」が与えられた。

もちろん、何でも自由にやらせたわけではない。84年1月、自らヘラーの副社長となり、内部から問題点をチェックする。富士銀行の専務もヘラーの非常勤取締役に就任し、ニューヨークに常駐して監督した。そうしたコーポレートガバナンスの強化が功を奏し、その後の巨額な不動産関連の不良債権処理を乗り切って、みずほは2001年にヘラーを売却し、大きな利益を手にする。

交渉開始からヘラー出向が終わるまでの3年間、学んだことは多い。富士銀行の頭取になったときも、いま日本政策投資銀行(政投銀)の社長になっても、それを思い起こす。

■悩みをほぐした二度目の「神の声」

1934年11月、岡山県高梁町(現・高梁市)に生まれる。父母はともに学校の先生で、父は禅宗、母はクリスチャンと宗教は違っても、仲がよく、助け合っていた。母に、よく高梁基督教会の日曜学校へ連れられていく。英語に興味を持ち、中学時代には、ラジオの英会話番組に聴き入った。県立高梁高校でも英語クラブに入り、教会に来ていたスウェーデン人宣教師の通訳を買って出て、地域を回る宣教師の言葉を訳しながらキリストの教えを学ぶ。

東大法学部へ進み、やはり英語研究会に入る。研究会の部長を務める先輩に誘われ、柔道部にも入った。この先輩が、2008年10月に民営化された政投銀の初代社長、室伏稔氏だ。その縁で、今日がある。

57年4月、富士銀行に入り、新宿支店に配属された。翌年、銀行に留学制度ができて、米国留学を打診された。フルブライト交流計画の試験を受けて合格し、59年夏に米カンザス大学へ赴く。翌年秋、帰国直前に、首都ワシントンの団体から各国からの留学生を20人集めてセミナーを開く、との話が舞い込む。選ばれていくと、プログラムの中で、大統領選に出馬していたジョン・F. ケネディ上院議員との面会があった。その若々しい情熱に、強く印象づけられる。1年間の留学から戻った後は、ほぼ国際業務畑を歩む。そのなかで経験したロンドン勤務などについては、次回触れる。

91年6月に頭取に就任し、再び「神の声」を聞く。赤坂支店の課長級行員2人が取引先と共謀し、偽造した預金証書を担保にファイナンス会社から巨額の融資を引き出し、2570億円もの穴があく。衝撃だった。実は、バブル最盛期だった1、2年前から「銀行の倫理観が、危うい」と感じていた。支店の収益を上げるために外交へ出る際、「出陣」と称してライバル銀行の旗を踏みつけていく例まであった。支店長会議で「サービス業は格闘技ではない」と戒めたが、暴走は続いていた。

8月に衆議院の予算委員会に参考人として呼ばれ、9月には参議院へもいく。調べてわかった事実を、すべて話すことを決意したが、やはり怖さもあった。国会へ出向く前、頭取室のドアを閉め、祈る。「力の及ぶ限り、すべてやりました。でも、何を答えたらいいのでしょう?」。そんな問いかけに、神は「やりなさい、いきなさい、話しなさい。私が力になります。自分の知っていることを話し、知らないことは、正直に『わからない』『答えられない』と言いなさい」と語りかけてくれた。不思議なほど心が落ち着き、「安時而処順」の心で、国会へ出向く。

富士銀行の会長を退き、縁あってドイツ証券の東京支店や日本法人で「第二の人生」をすごし、08年9月に引退した。いや、そのつもりだった。先輩の室伏さんに頼まれ、翌月から政投銀の助言機関の一員になったが、それは、あくまで「奉仕」と考えていた。まさか、「第三の人生」が待っているとは思わない。

だが、昨年6月、室伏さんの後継社長に指名される。いま、民営化から4年目。その間に、日本航空の経営再建の支援、東日本大震災からの復旧・復興、原発停止を補うエネルギー源の確保、そして激しさを増す新興国向けインフラの商談と、濃密な時間が続く。こうした時代を、もはや政府に頼らず、組織を強化していくには、やはりガバナンスが重要だ。毎日、そう自戒している。