バス停地名学の原点回帰、2題

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バス停カテゴリで寄稿させていただいてから、早2年。今回で記事数も36回目となりました。ここ数回は「バス停+バス路線」という着眼で記事を書かせていただきましたが、今回は私の提唱する「バス停地名学」の「原点回帰」ということで、都心の失われた地名が残るバス停に拘って、2か所ほどご紹介させていただきます。まずは六本木ヒルズの東、六本木交差点と飯倉交差点の中間にある、都営バスの飯倉片町バス停をご紹介します。飯倉片町は、現在も交差点名などに使われていますので、比較的耳慣れた町名ですが、行政上は昭和42年の住居表示施行で消滅していますので、その後40年以上も旧町名がバス停に残り続けたことになります。更にはこのバス停、平成12年の都営地下鉄大江戸線開業時のバス路線再編で一旦は廃止されましたが、その後の平成18年、五反田駅と六本木ヒルズを結ぶ路線のバス停として、復活しました。すなわち、ここは旧町名がバス停に残る事例であるとともに、復活時にも旧町名がそのまま採用されたという点で、バス停地名学的に貴重なバス停といえます。(現在は港区のコミュニティバスも飯倉片町バス停を設置)
2_飯倉片町交差点住居表示前の古い地図を見ると、飯倉片町が外苑東通り南側の片側町だった様子がわかります。現在の麻布台一帯がかつての飯倉地区で、江戸時代には飯倉1〜6丁目に片町、永坂町、狸穴町、六本木町を加え、飯倉10ヶ町と呼ばれました。このうち片町は、南向きの高台という立地から、明治期には華族などの邸宅が多かったといいますが、その面影は現在も国際色豊かな高級住宅街として受け継がれています。
3_麻布台の高級住宅街バス停から麻布台3丁目の住宅街をぶらぶら歩いていくと、ブリヂストン美術館分室前あたりから道は急激な下り坂となり、典型的なスリバチ地形を見せる麻布狸穴の谷底へと落ちていきます。谷底から東京タワーを見上げる独特の景観が面白い街並みですが、外苑東通りへ上る北側の傾斜地を中心に大規模な再開発工事が進行中で、旧飯倉片町の景観も大きな変化を見せようとしています。こうした状況を見るにつけ、旧町名を残すバス停の存在は、ある意味文化財的な価値すらあるのではないかと考えてしまうのは、私だけでしょうか。
4_スリバチの底から東京タワーを見上げるさて、もうひとつご紹介するのは、新宿区の靖国通り上にある、都営バスの花園町バス停です。この場所の現在の住所は、靖国通り南側が新宿一丁目、北側が富久町ですが、住居表示施行の昭和48年まで、新宿一丁目側に花園町の町名がありました。江戸時代初期の頃は、この付近に伊賀の鉄砲百人組が置かれ、それが25騎の与力と百人の同心で構成されたことから二十五騎町の名がありました。後に百人組は大久保へ移転し、現在の新宿区百人町の町名にその名残りが見られますが、跡地の方は大正9年から花園町となりました。その由来は定かではないようですが、新宿5丁目の花園神社との関係や、幕末の頃から付近の旗本屋敷に美しい花壇があったなどの説があるそうです。大久保の百人町がツツジの名所となったのも、百人組同心の内職がその発祥といわれますから、花壇説の方が信憑性が高いかもしれません。
5_花園の商店街バス停から新宿一丁目を新宿御苑方向に歩いてみます。新宿の歓楽街の東の外れという立地で、「はなぞの」の文字が入った紫色のペナントが掲げられた商店街には、飲食店の多さが目立ちます。町名が消滅してからおよそ40年弱ということになりますが、付近には花園通り、花園小学校、花園公園などがあり、花園地名がバス停とともに現在も地元にしっかりと根付いている様子がわかります。
6_三遊亭円朝旧居跡の碑花園小学校の校庭と一体化している花園公園でひと休みしていると、その入口に三遊亭円朝旧居跡の碑があることに気付きます。この地に暮したのは明治21年からのおよそ7年間のようで、新宿区教育委員会の説明によれば「屋敷地は約千平方メートルで、周囲を四つ目垣で囲み、孟宗竹の薮、広い畑、桧・杉・柿の植込み、回遊式庭園などがあり母屋と廊下でつづいた離れは円朝堂と呼ばれ、円朝の居宅になっていた」とのこと。現在の街並みからは想像もつきませんが、江戸末期から明治期にかけては、この付近はあくまでも市中とは対照的な「郊外」であり、畑地の広がる閑散とした景観が広がっていたものと思われます。百人同心が手掛けた花壇も、こうした場所だからこその副業だったのかもしれません。

新宿一丁目界隈をひと回りして、再び花園町バス停に戻ります。失われた地名を残すバス停を訪ねていつも思うことは、ここでバスを待つ人のうち、どの程度の人がバス停名に「おや?」という関心を持つだろうか、ということです。その疑問符が、街の歴史に思いを巡らせるきっかけとなることを、「バス停地名学」提唱者としては願ってやまない毎日なのであります。