宇宙飛行士
山崎直子
1970年、千葉県生まれ。東京大学工学部航空学科卒業。同大学航空宇宙工学専攻修士課程修了。2001年、JAXAで宇宙飛行士として認定。06年、NASAより搭乗運用技術者として認定される。10年4月5日、スペースシャトルで宇宙に旅立つ。

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■幼い頃抱いた宇宙への憧れ

2010年4月20日午前(現地時間)、青空の向こうからスペースシャトル・ディスカバリー号の機体が現れ、ケネディ宇宙センターに着陸した。日本人女性初のミッション・スペシャリスト、山崎直子宇宙飛行士と6人のクルーは15日間のミッションを終え、無事地球に帰還した。

着陸から約2時間後、クルーたちは元気な姿で滑走路に降り立った。そのとき、山崎さんは吹き抜ける風の心地よさ、滑走路の脇にある木々の香りに驚きを覚えた。そして、改めて地球の美しさや、地球に戻れた喜びを実感したという。

山崎さんが宇宙飛行士候補に選ばれたのは1999年のこと。しかし、宇宙飛行士に選ばれたからといって、宇宙行きが確約されたわけではない。実に11年もの歳月を経て、宇宙飛行の夢を現実のものにしたのだ。

当初、宇宙飛行は3〜4年後といわれていたものの、03年2月にスペースシャトル・コロンビア号が宇宙からの帰還時に空中分解し、搭乗者全員が亡くなるという大惨事が起こった。この事故で、その後のスペースシャトル計画と、ISS(国際宇宙ステーション)建設予定が白紙に。そのため、山崎さんは“見えないゴール”に向かって走り続けることを強いられることになった。

「訓練自体は一つひとつが刺激的でとても楽しいものでした。そうしたなかで一番辛かったのは、やりたくてもやれないときでした」

そんな状況のもと、いかにして山崎さんはモチベーションを保ち続けたのだろう。

そこには山崎さんが幼い頃に抱いた、宇宙への憧れがあった。千葉県松戸市に生まれた山崎さんは、父の転勤で5歳から7歳までを北海道で過ごす。そのときに楽しみだったのが「星を見る会」。天体望遠鏡を通じて見た、月のクレーターや土星の輪の神秘的な光景。山崎さんは星空に魅せられた。幼少期の強烈な体験は、時として人に大きな原動力を与える。

「仲間の宇宙飛行士やインストラクター、管制官や家族など、いろんな人の存在も大きかった。一人だったらやめようと思うことがあっても、みんながいたからこそ続けることができました」

しかし、仲間の宇宙飛行士が命を落とし、その後の計画が白紙になったコロンビア号の事故は、山崎さんに「宇宙に行く」ことの意味を改めて問い直す、衝撃的な出来事でもあった。「自分が目指していることが本当に正しいことなのか」――。何もできないもどかしさのなか、客観的に自分を見つめ直し続ける山崎さんがいた。

「違う道もあるんじゃないかとも考えました。でも、宇宙に行くという夢を持ち続け、初志貫徹でやり切るのも意味があると思うようになりました。どちらがいいのかは正直今でもわかりません。続けることもそれなりに大変だし、立ち止まってやめる勇気も必要だと思います」

確かに、目標に向かって前進し続けることは大切だ。しかし、時に立ち止まって考えることで得られる“気づき”はかけがえのないものとなる。誰しもに共通していえることであろう。しかし、すぐ後にそのことを山崎さんは痛感することになる。

当初はISS長期滞在要員として、基本的には日本を拠点に訓練を続けることになっていた山崎さんであるが、コロンビア号の事故後、急遽ロシアのソユーズ搭乗資格を取り、宇宙飛行の可能性を少しでも広げることが決まった。当時、すでに結婚して娘を出産していた山崎さんは単身でロシアに渡る。そこで、夫の山崎大地さんがISSの運用管制官になるという自らの夢を一旦中断して会社を辞めることを決意。山崎さんの全面的なサポートに回った。

万全の体制が整ったように思えたが、新たな試練が山崎さんを襲う。夫が環境適応障害を患ってしまったのだ。

次にスペースシャトルの搭乗資格を取るために渡米した山崎さんのもとに、大地さんが娘を連れてきて、家族一緒に暮らし始めた。大地さんは一段落したら、宇宙関係の仕事に就くつもりであった。しかし、アメリカでの就労許可が下りず、日に日に落ち込んでいった。山崎さんが宇宙飛行士という夢に邁進することが、夫を精神的に追いつめていると気づいたとき、いつもは「なんとかなるさ」と楽観的な山崎さんも深い挫折感を味わう。

「いろんな人の苦悩を知ったうえで、それでも宇宙に行く。宇宙へ行くことの深みが増したように思いました。今後もさまざまな困難があるでしょう。でも、そこに意味を見出し、価値を決めるのは自分。すべての出来事には意味があり、それを信じて乗り越えていこうと思いました」

柔らかな笑みを浮かべ、丁寧な口調で言葉を重ねていく山崎さん。自分の力ではどうすることもできない困難を正面から受け止め、人の痛みを感じながら自らの夢に価値を見出し、訓練を積み重ねていくことで、強さと優しさを獲得していったのだ。

■史上2回目のアンテナの故障

そして10年4月、山崎さんはようやく夢を実現するときを迎えた。今回のミッションはISSに実験装置などを輸送するのが目的。山崎さんはロボットアームを駆使して物資を移動、設置する作業を受け持った。

しかしミッション本番、地上との高速高容量データ通信や、ISSとのドッキング時にレーダーシステムとして使われるKuバンドアンテナが故障してしまう。今回で131回目となるスペースシャトルのミッション史上2回目のレアケースだった。

「事前に想定訓練をしていたとはいえ、実際に起きるとは思っていなかったのでびっくりしました。ISSへのランデブーは急遽予定を組み替え、クルーのチームワークによって成功しました」

また、Kuバンドアンテナが使えないために生じた、ISSドッキング中にシャトル表面にある耐熱タイルを検査し、その画像を地上に送信するという新たなミッションでも難問が控えていた。10メートルのロボットアームに10メートルの延長ブームをつなぎ、表面をくまなく検査するのだが、訓練では未経験。通常とは違う動かし方でロボットアームを操作することが求められた。しかもシャトルとロボットアームの隙間は最も近いところでわずか40センチメートル。そんなとき、ロボットアームを操作する山崎さんを支えたのはクルーや地上管制官たちだった。

「地上から新しい手順が送られてくるので、前日にクルー同士でレビュー。当日は緊張しながらも無事、作業を行うことができました。こうした仲間がいるからこそ柔軟に計画が変更できたのです」

スペースシャトルという複雑で高度なシステムを操作するのも、ミッションを遂行するのも人間の知恵や技術あってこそ。Kuバンドアンテナが使えないという想定外の出来事も、そこに関わる大勢の人たちの信頼関係が大きな力となって、ミッション達成へ結びついた。

今、子どもですら夢を持ちづらい世の中になっているといわれる。そこで11年もの紆余曲折を経て夢を実現させた山崎さんに、夢を持って挑戦し続けることの意味について尋ねてみた。

「不安を恐れず、最初の一歩を踏み出してみたらどうでしょう。そのときできることを積み重ねていくことが、大きな夢につながっていくのではないでしょうか。それにとことんまで本気で考えていくと、その本気が人にも伝わり、状況が少しずつ前に動き始めていくように思えるのです」

先日、山崎さんの娘が小学校で将来なりたいものの絵を描いてきた。そこには宇宙飛行士の姿があった。もがきながらも自らの「夢=ミッション」を達成した母の姿を間近で見守ってきた山崎さんの娘も、きっと何かをつかみ取ろうとしているのだろう。

※すべて雑誌掲載当時