自由が少なくストレスフルなイメージがある軍隊。だが、適度に制限のある環境は、実は想像以上に働きやすいという。なぜなのだろうか。

「情報の選択」がエネルギーを激しく消耗させる

いまの日本は「自由」が尊重される社会だ。されすぎている、と言ってもいいかもしれない。加えて、自由に選べる「選択肢」の数も多すぎるという側面がある。

平成19年度の厚生労働省の調査によると、日本人の約70%以上がストレスを抱えているという。もちろん、数十年前と比較すれば増加傾向だ。自殺、うつといった深刻な状況でなくても、ストレスから会社を休む人は、いまや珍しくない。

たくさんの選択肢から自由に自ら選べることは、基本的には素晴らしい状況だろう。「自由化された社会」は民主的だし、「自分の思うように生きられる」という意味で、一見、マイナス要素はなさそうだ。

しかし、私は「自由の過度の拡大」が、今日の日本社会のストレス増加の理由のひとつと考えている。

私たちは「エネルギー消費=肉体を使うこと」と捉えがちだが、無数の選択肢のなかから「選ぶ」という頭脳労働もかなりのエネルギーを使う。

インターネットで簡単に情報を集められるようになった現代では、常に「集めすぎた」情報からの取捨選択を迫られる。確かに便利な世の中だが、無数の情報処理という頭脳労働によって、私たちのエネルギーが日常的に相当消耗させられている「マイナス点」も見過ごせない。

なぜ、体を動かさず、頭で「選ぶ」だけでエネルギーをそれほど消費するのだろうか。それは、情報を選択するさい、そこに必ず「感情」が伴うからである。感情は、環境への適応のために動物が「自発的に行動するよう」に、仕組まれたプログラムだ。たとえば、危険を察知できるように、人間の心は「恐怖」を感じるようにできている。

そうしたさまざまな感情のなかで「不安」というプログラムは最重量級の「重さ」を伴う感情だ。人間は、気になる問題があるとき、その原因をつきとめて排除するよう、情報を集め、複数のシミュレーションを比較検討する。しかし、情報には際限がないので、「見落としがないか」と気をつけながら調べるうちに、不安の可能性のバリエーションがどんどん増えていく。

つまり、結果的に「不安」を煽ってしまうのだ。だから、不安という感情を抱えながら「選ぶ」のは、非常にエネルギーを消耗する行為なのである。体はほとんど動かしていないのに、不安な状態が長期化すると、ストレスで痩せたりすることがあるが、いかに「不安」という感情が「重い」かわかる例だ。

さらに昨今は、「自由」を行使することと、欧米的な「自己責任」がセットになっている。多くの選択肢から選んだ結果はよくも悪くも自己責任、というわけだ。自己責任を常に問われ続ければ、誰だって不安になる。過度なエネルギー消費と不安のセット。これはストレスを生みやすい状況である。

そうした「過度に拡大した自由」によって生じるストレスを「自由太り」と私は呼んでいる。何にせよ、行きすぎは問題だ。そこで、少しだけ「自由」を制限してみてはどうだろう?

軍隊式だからこそ対処できる戦場ストレス

私は現在、陸上自衛隊で心理カウンセラーという職を務めている。戦場や災害派遣といった悲惨な現場で働く隊員たちが滞りなく任務を遂行できるように、あるいは過酷な任務によって抱えることになった強いストレスを可能な限り小さくできるように、メンタル面から支援する職務である。私自身もかつて現場にいたので、隊員たちの心の疲労は理解できるし、人の心がどのような過程を経てダメージを深め、回復していくか、多くの事例をつぶさに見てきた。

自衛隊は多くの規則に「しばられた」組織だ。「自由」が少ないストレスフルな職業とお考えの方も多いと思う。確かに「個人の自由」は一般的な企業と比較すれば少ないだろう。任務における「自由裁量」の領域も狭い。上下関係もとても厳しい縦社会だ。

ところが、便宜上の表現として「軍隊式」という言葉を採用するが、こうした「軍隊式」の組織や生活は、現場での任務、つまり防衛出動といった戦闘を伴う任務の過酷さを横におくと、ふだんは意外につらくないのだ。

なぜだろうか。それは事細かな規則と厳格な縦社会は「戦場」という、これ以上ないほどの強いストレス環境を乗り越えるために編み出された「有効なストレス対処法」だからである。

具体的に説明してみよう。軍隊の指揮官には、「作戦」「情報」「人事」「後方(物資)」の4人のスタッフがいる。このうち情報スタッフは、「情報をいかに集めるか」と「集めた雑多な情報のなかからいかにして価値のある情報だけをすくい出すか」を常に考えている。4人のスタッフのなかでも、もっともハードな頭脳労働が必要になる。情報スタッフは、指揮官がいま必要としている情報だけを端的に提供する役割を担っている。

行動経済学に「選択肢が多すぎると結局何も買えなくなる」という「決定回避の法則」という法則があるが、それと同じで、情報が多すぎると指揮官は決定しにくくなる。戦いでは一瞬の躊躇が命取りになる。情報スタッフが必死に取捨選択した情報だけに集中すれば、冷静かつ迅速な決定が下せる可能性が高くなる。

この業務の流れ(仕事の区分)は、実は情報スタッフの作業の質も向上させている。情報スタッフは、作戦の決定を下す重責からは解放されているのだ。つまり、「情報収集」と「選択」が切り離されているのである。

往々にして、現場は急を要する状況だから、各人がスピード感を持って粛々と自分の任務に集中する必要がある。つまり、責任の領域の限定は、それぞれが余計なストレスを抱えることなく、任務に集中できる環境を整えるための解決策なのだ。

また、軍隊で各人が勝手に「自由」にふるまったら、味方の動きが読みづらくなる。味方がどう動くか予測不可能になったら、お互いの信頼が揺らぐ。こうした事態は、戦場において、文字通り、命にかかわるリスクとなる。

だから、リスク回避のひとつの工夫として、軍隊は階級を尊重する。究極の縦社会である自衛隊では、上官の命令、決定は絶対だ。もちろん、異論を唱えられる場がないわけではなく、時間に余裕があれば、さまざまな意見を交わし合う。

しかし、意見が分かれたまま、戦場に出るわけにはいかないし、そもそも緊急事態に悠々と民主主義の手続きをとっているヒマなどほとんどない。軍隊が末端まで細かく階級分けされているのは、不測の事態で上官が倒れてしまっても、自動的に次のトップが決まって命令の系統に不備がないようにという工夫である。

自衛隊と違って「自由」な風土の一般企業では、上司が部下に対して「じゃあ、ひとつよろしく」で済ませる場面もあるだろうと思う。

拙著『しばられてみる生き方』でとりあげた例で説明すると、たとえば社内の懇親のために上司がイベント開催を思いつく。そこで上司が若手社員に「今度うちの課の全員で、家族を呼んでバーベキュー大会でも開こうと思うのだが、君がその音頭をとってくれよ。よろしく頼むよ」と言ったとしよう。一見、なんでもない命令だ。しかし、この命令には若手社員を悩ます要素がふんだんに入っていることに、ぜひ気づいていただきたいのだ。

真面目で責任感の強い部下が陥りがちな罠

全員参加はマストか。仕事か仕事外のレクリエーションか。独身者も「家族」を呼ぶべきか。社員の家族にも用事があると思うが、それを押しても参加が求められるのか。バーベキュー大会「でも」ということは、バーベキュー大会でなくてもいいのか。「音頭をとる」というのは、手配まで自分がやるのか、それとも声をかけて集めるだけでいいのか……。

こう書くとバカバカしいようだが、マジメで責任感が強い人ほど、「よろしく頼むよ、と言われたのだから、いちいち上司に確認するわけにいかないし……」と、一人で悩む要素満載の「命令」なのである。
「よろしく」には「上手にやってね」の意味が含まれていて、こうしたあいまい表現は「上手にやる」方法を部下の裁量に任せすぎてしまう。

そもそもこの命令は「何のために」「よろしく」やればいいのか。人事異動の季節で親しくなるきっかけをつくるためか。あるいは、部内の風通しが最近なんだか悪いので、仕切り直すためか。上司が「バーベキュー大会開催」を思いついた「目的」をしっかり伝えなければ、目的も内容もブレていき、せっかくの懇親会が台なしになる可能性がある。

懇親会なら、まだ「失敗」してもいい。だが、大事な仕事の場で、この「ひとつよろしく」をやってしまうと、仕事が滞るうえに、部下は責任を強く感じて、本来抱える必要がない大きなストレスを抱えることになる。滞りのない仕事のためにも、部下をムダなストレスから守るためにも、目的、期日、予算、「使用可能なシステム」や人員など、部下に任せる「裁量の幅」をしっかり伝える必要がある。

「裁量の幅」を細かく伝えること。それは面倒なコミュニケーションかもしれない。それなら自分がやったほうが速いと思う人もいるだろう。しかし、対人間のコミュニケーションというのは思惑だらけでもともと面倒くさいものなのだ。だからこそ、少々面倒でも上司は部下に詳細な指示を出して思惑や広すぎる自由裁量権を排除してあげてほしい。

また、上司と部下に挟まれる中間管理職は、いろいろな判断ができるスキルと経験をすでに持っているのに身動きがとりづらく、「とてもしばられている」と感じる場面が多いと思う。それゆえ、「しばられる」ことにマイナス感覚を持っているかもしれない。「俺には裁量権がない」「俺は外に出て自分の力を発揮したいから退社しようかな」といった不満もあるだろう。

しかし私は、「あなたが置かれている状況はそんなに悪くないですよ」と言いたい。制限された裁量権のなかで、精一杯のパフォーマンスを出すことに集中できる、というのは日本人が力を発揮しやすい条件と考えているからだ。

自由と自己責任のセットは、グローバル化に伴って輸入された欧米的な価値観である。狩りに出かけていた欧米人と農耕民族の日本人は、根本的に向き/不向きが異なっているように思う。

村全体で一丸となって力を発揮し農作物を育ててきた日本人は、ほどほどの村の掟にしばられながら、村の長の意見に従ってきた。拡大する自由にまだまだ慣れていないのだ。

「風通しのいい会社」ほど「自由」が尊重されていると思う。しかし、まだまだ未熟な部下に、過度な「自由」を与えたら逆に潰してしまう可能性があることも、心に留めてほしい。「適度なしばり」を含めたコミュニケーションを怠った組織のシステムは、おそらく痩せていくだろう。

とはいえ「自由」と「自己責任」が尊重される流れを止めることはできないだろうし、日本人も自由と自己責任のセットにいつか慣れていくと思う。しかし、いまはまだ過渡期で、ほどほどの束縛がちょうどいい、といった時期ではないだろうか。

部下をムダなストレスから守り、組織を一段強くするためにも、いま一度「自由」を見直してみる「自由太り」のダイエットをお勧めしたいと思う。