[Thomas Bohlen / Reuters]

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 アメリカ生まれの酒井高徳。育ちは新潟県三条市。日本人を父に、ドイツ人を母に持ち、四人兄弟の次男坊。三男はアルビレックス新潟でプレーし、アルビレックス新潟ユースに所属する四男は、現在U−16代表候補でもある(余談だが、過去、ワールドカップ出場選手の中に四人兄弟が3選手いる。名波浩、中村俊輔、市川大祐と3選手。ともに四男だ)。

 酒井が本格的にサッカーを始めたのは10歳ときだった。
「いろいろなスポーツをやっていたかったから、サッカークラブへ入ることに興味がなかった」と当時を振り返る。しかし、ひとりで、河川敷でボールを蹴って遊んでいたとき、ある男性に「僕が指導しているクラブでサッカーをやらないか?」と誘われた。手渡されたチラシを持って、翌日学校で「このクラブ知ってる?」と友人たちに聞いたところ、何人かがすでにそのクラブでプレーしていた。「じゃあ、僕もいっしょに」と入部を決めた。

「まったく上手じゃなかったですよ。だって俺、クラブに入る前はトーキックしか蹴れなかったから。インサイドステップとかインステップとか、名前は聞いたことあったけど、教えてもらったことがないので、蹴れなかったんです」
 当時から10年と少しの時間が経ち、ドイツのシュトゥットガルトで、酒井は笑う。21歳になる酒井にとってみれば、人生の半分の時間にあたる10年間のサッカー色は当然のように濃いものだった。

「僕は本当にラッキーなんですよ」と酒井は続ける。
 三条市で所属していたクラブの関係者が“たまたま”アルビレックス新潟の強化の人と知り合いだったから、アルビレックス・ユースへの加入のチャンスが巡ってきた。
 中3のころ北信越トレセンの代表として、初めて参加したナショナルトレセンでの合宿。フォワードだった酒井は、合宿最終日の20分間の試合で、ハットトリックを決める。「幾つもの試合が同時に行われていたのに、“たまたま”池内さんが、僕の試合を見ていて、誰だってことになったんです」と。
 そしてその後、U-15日本代表入りすると、サイドバックにポジションを代えても、年代別代表の常連となり、飛び級でU-19代表候補も経験。Jリーグでもデビューし、2010年にはワールドカップ南アフリカ大会のバックアップメンバーにも選ばれる。
「日本人離れした強いフィジカルとスタミナ」が彼の武器と言われ続けてきた。

 高いレベルのグループへ入ることで、自分のつたなさを痛感するというアスリートは多い。そんなとき、「競争に生き残るために何をすべきか」と誰もが考えるはずだ。ある者は武器をさらに強力にするために磨き、また、弱点克服の術を模索する者もいるだろう。
 さて、酒井はどうだったのか? 文字通り、彼には日本人離れと言われるフィジカルがあり、周囲はそこを評価していた。
「サイドバックなら、右でも左でもプレーできなくちゃダメだと思っていたから、両足でボール蹴れるようになりたいという気持ちがあり、練習し続けた。でも、僕は足元の技術がないという風に痛感する毎日でした。だから、『フィジカルの強さ』をほめられても、ぜんぜん嬉しくなかった。『そんなにこのフィジカルがいいなら、お前の技術と交換してくれ』と思っていましたね」
 そんな気持ちはプロ入り後も変わらない。
 さらに、プロ入り後は「守備力の弱さ」という新たな課題にも直面。監督や先輩などにアドバイスを求め、そして「自分のところへボールが来る前に、防ぐ方法があることを学んだ」という。周りの選手を動かして、守備網を張るというわけだ。
 最後の1対1の場面で、酒井自身がやられない工夫はもちろん行う。しかし「ラストパスの出所を抑える」などし、1対1の場面を生まないことも重要なのだ。