自分のためにする仕事は仕事とはいえない

仕事とは? Vol.72

作家 池井戸潤

下町ロケット』で直木賞を受賞した作家・池井戸潤氏の転機とは?


■考えるだけでは自分の強みは見つからない。肝心なのは、やってみること

銀行では支店の融資を担当し、中小企業を中心にお金を貸していました。今でもやりたいくらい面白かったですよ。「仕事を与えられて、やる」というのはどんな職種でもやりがいのあるものですが、入社2、3年目の社員でも取引先の会社の発展に大きく貢献できるというのは金融の仕事の醍醐味(だいごみ)かもしれません。一方で、自分の判断次第で取引先の会社の社員が路頭に迷うという緊張感はほかの仕事にはない厳しさだと思います。

32歳で退職したのは、組織の論理を優先する銀行の風土になじめなかったからです。自宅で顧客データベースの管理会社を立ち上げましたが、うまくいかず、自分がいかに組織に守られていたかに気づかされました。僕個人には社会的な信用も看板もない。危機感を抱き、仕事をしていくうえで自分の強みとなるものは何かを真剣に考えました。思い至ったのが、銀行で培った融資の知識と文章力。学生時代から小説を書いていたので、書くことは得意だったんです。そこで、この2つを合わせればいいと中小企業向けにお金の借り方を解説した原稿を書き、出版社に持ち込んだところ、『銀行取扱説明書』という本になりました。

この本をきっかけにビジネス書の執筆や中小企業のコンサルタントなどの依頼が舞い込みました。仕事は軌道に乗りましたが、ビジネス書というのは企画が良ければ書き手の個性は問わないというところがあります。もっと自分の強みを出せる道はないかと考え、ふと思い出したのが「ミステリー作家になりたい」という少年時代の夢でした。

江戸川乱歩賞に初めて応募したのは34歳の時。最終選考で落選しましたが、翌年、『果つる底なき』(1998年)で乱歩賞を受賞しました。夢がかなったと喜びましたが、本は売れませんでした。小説家として食べていくには、力が足りないという現実を目の前に突きつけられたわけです。とはいえ、雑誌での連載小説の仕事もあったので、作家としては恵まれていたと思います。

なぜ僕に仕事がきたかというと、「ジャンル」があったからです。『果つる底なき』はビジネス書のライターの仕事をやりくりして1カ月で書いた作品です。取材をする時間もなく、苦肉の策で、銀行員時代に体験した債権回収の経験をベースに書きました。それを「銀行ミステリーの誕生だ」と選考委員の方が賞賛してくださり、企業や会社員を題材にした小説の依頼が続いたんです。

ただし、その後僕が書くものは何でも書店の「企業小説」の棚に入れられてしまいました。僕自身は企業を主題にしているつもりはなく、サスペンスや心理描写を楽しむエンタテインメントを書こうとしているにもかかわらずです。作家としてのイメージと作品内容にズレが生じ、中途半端だったのでしょう。本はなかなか売れず、悩みました。

そこで、自分に求められるのが「企業小説」なら、いっそのこと思いっ切りそれに応えてみようと書いたのが『空飛ぶタイヤ』(2006年)でした。エンタテインメントというベースは変えず、企業小説に求められるビジネスの場面のリアルな描写を詰め込んでみたところ、意外にも直木賞の候補に。賞は逃しましたが、この作品で築いたスタイルが『下町ロケット』(2010年)での直木賞受賞につながりました。

紆余(うよ)曲折はありましたが、壁にぶつかるたびに自分の強みは何かを考え抜いたことが突破口になりました。とはいえ、考えるだけでは強みは見つかりません。「自分はこれが得意かな」ということは誰にだってあります。肝心なのは、やってみること。僕も節目ごとに周囲から「ライターとして食べていくのは厳しいよ」「小説家になるのは難しいよ」と言われました。でも、とりあえずやってみたら、仕事になった。やらなきゃわからないものです。

小説でもそうなんですよ。デビュー2作目の『M1(『架空通貨』に改題)』(2000年)のころまでは、登場人物のキャラクターまで細かく設定した原稿用紙50枚くらいのプロット(筋立て)に基づいて執筆していました。でも、それでは物語が踊らない。予定調和になってしまうんです。だから、今は物語の山場や着地点をざっくりと決めるだけです。作家にとって小説が終わらないというのは一番怖いので、プロットについ頼りたくなります。でも、決め込まない方が、可能性は広がるものです。


■「仕事にプライドを持つ」とは自分らしさを出すこと

小説は基本的に読者のために書いています。職業作家ですから、自分の主義主張を作品の中に投影しようとは思っていません。本が売れなくなれば、作家でいられなくなってしまいますから。それに、どうすれば読者が読んでくれるかを考えるのはとても楽しい。語り始めたら止まらないくらいです(笑)。子どものころからミステリーなどエンタテインメント小説を読むのが大好きだったので、自分が読んで驚いたり、心を動かされるものを書きたいという思いで書いています。

面白い小説を書くために心がけているのは、一番描きたいことを読者にストレートに伝えるため、題材をわかりやすく書くこと。小説というのは人を描くものだと僕は思っていますが、それ以前に「企業小説は難しそう」と読者に敬遠されてしまっては、元も子もありません。だから、ビジネスの現場の話も、企業で働いた経験のない人にも読めるように書いています。

ビジネス書のライター時代は、難しい知識をわかりやすく書くのが仕事でしたから、その点ではビジネス書の経験も今に生きていると思います。経験というのは、記憶にさえあればなんでも蓄積されるものですよ。こうやって取材を受けているだけでも、インタビュアーの表情や光景が記憶に残っていて、次回作に登場したりすることもありますから。

小説を書くにあたって、最近よく考えることがあるんです。人間として尊敬に値する人物のキーワードって何かなと。「ひたむきさ」「誠実」「優しさ」「強さ」と同時に、「賢さ」も大事だと思いますね。「賢さ」とは偏差値の話ではなく、自分の頭で考えることができるという意味です。それは、ビジネスの現場で言えば、与えられた仕事に自分なりのひと工夫を付け加えるということ。付加価値をつけるということです。「仕事にプライドを持つ」という言葉をよく聞きますが、それは自分らしさを出すということだと思います。

僕が社会に出て20年あまり。食べていくだけで精一杯で目の前のことを必死でやっていた時期もありますが、少し落ち着いて過去を振り返れるようになった今、実感していることがあります。それは「自分のためにする仕事は仕事じゃない」ということです。仕事というのはお客さんのためにするもの。社会のためにするものです。当たり前のようですが、このことがわかっていないために起きる間違いというのは世の中にたくさんあります。わかりやすく言えば、粉飾決算や食品偽装とかね。でも、仕事とは何かがわかっていれば、そんなことはあり得ない。仕事は誰のためにするものなのかをわかっているだけで、ずいぶん差がつくと思いますよ。僕自身が社会に出た時は、全然わかってなかったですけどね(笑)。

それから、20代や30代で人生の勝敗は決まらないということも覚えておいてほしいですね。人生は大小さまざまな勝負の積み重ねです。就職活動で思うようにいかず、落ち込む人もいるかもしれないけど、一生懸命やっている人が負け続けることはほとんどありません。小説家としての冷静な分析に基づいて言うのですから、間違いないです。ダメなのは、1回うまくいかなかったといって、努力をやめたり、あきらめてしまうこと。そうすると、負の連鎖で次もうまくいきません。だから、1回や2回ダメでも、ヘコたれないでほしい。勝負が見えてくるのは70代以降。僕だってまだ先はわからないんですから。