福島第一原発から25km、川内村に住んでいた作家のたくきよしみつ氏。あれから1年、避難民の実情を語る

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 避難対象地域に住んでいた場合、避難中の精神的補償はひとり当たり月額10万円。原発事故で住み慣れた町を追い出されたのだから、当然だと思うかもしれない。しかし、昨年末まで福島県川内村に住んでいた作家のたくき氏は、この枠組みが川内村を壊すと語る。いったいなぜ? 原発マネーできしむ現状を語ってもらった。

■阿武隈梁山泊計画は絶望的になってきた

――作家のたくきよしみつが7年近く住んだ福島県川内(かわうち)村を離れたのは昨年の3月12日、福島第一原発1号機の爆発映像がテレビに映し出された直後のことだった。

 自宅は原発から25km地点。心臓がばくばくした。放射能被曝の危険が迫っていた。

「逃げるぞ!」

 妻にそう告げると、身の回り品をザックに詰め、車で神奈川県川崎市の仕事場にたどり着いた。

【たくき】その後、3月26日に自宅に荷物を取りに、川内村に一時帰宅したんです。線量が低いことは予想していましたが、実際に低い。村の中心部あたりで0.8マイクロシーベルト。自宅の室内は1マイクロほどでした。もともと川内村は地盤が固く、地震の被害はほとんどなかった。電気、プロパンガスなどのインフラも問題なかった。

 当時、多くの人が避難していた郡山市の線量は2マイクロ前後もありました。友人たちも戻り始めていたし、一緒に村の再建に協力できればと思って、4月末に戻ったんです。

――川内村では3月16日、遠藤雄幸(えんどう・ゆうこう)村長が強制避難を決断し、約3000人の村民の多くは郡山市の「ビッグパレット」に身を寄せていた。村は原発から20km圏の警戒区域、20〜30km圏の緊急時避難準備区域に二分された。こうしてほぼ無人となった川内村で、荒れ狂う4基の原発と背中合わせの生活が始まった。

【たくき】失望はしていませんでした。いや、むしろ川内を魅力ある村へと再生させるチャンスかもしれないとさえ思っていたんです。

――川内村の豊かな自然に魅せられて移り住んだたくきだが、血縁関係に縛られ、チャレンジをしない村民たちの姿に物足りなさを覚えることがしばしばだった。

【たくき】多くの村民が福島第二原発のある隣の富岡町や第一原発のある大熊町などで仕事に就き、収入を得ていることもあって原発ぶら下がり体質はかなりありました。原発の仕事をしている限り食べていける。そのため、豊かな川内村の自然を生かして、新しい産業やビジネスを起こそうという動きが起きない。

 その一方で、風力発電プロジェクトやゴルフリゾート、産業廃棄物処理場といった誘致話ばかりが浮上する。村の有力者は川内村の自然を切り売りし、楽に儲(もう)けることしか頭にないんです。しかも、有力者は一族の代表として村議会議員に当選し続けるから、異論も封じられてしまいがちです。

――ところが、原発事故で状況が変わった。

【たくき】200人ほどの村民が川内村に戻ってきたんです。その中には、移住者も含めて、川内村の自然が大好きで、そこで暮らすのが当たり前と感じている人が多かった。だから、そうした人々と力を合わせ、原発に頼らないネオ川内村を作れるかもと期待しました。

 イメージとしては“梁山泊(りょうざんぱく)”ですね。原発から30km圏というマイナスの風評は避けようがないけど、それを逆にエアカーテンのように使って、阿武隈(あぶくま)山地の森と水に触れながらゆったり暮らすことを望む人々が集まって、桃源郷のようなネオ川内村を作れないものかと。

――だが、期待はじきにしぼむ。4月22日、計画的避難区域、緊急時避難準備区域が制定されたのと同時に、国は同地域での稲の作付けを全面禁止した。8月には農水省が、もし収穫したら全量廃棄を義務づけるという省令も出す。