福島県庁に張り出されていた「内部被爆検診車贈呈式」のお知らせ。福島に住んでいる人が今、一番知りたい情報は健康被害の実態だ

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 計画的避難区域に指定された福島県飯舘村から、昨年7月に福島市飯野町の仮設住宅に避難してきた高山さん(仮名・30代主婦)は、この1年間、情報に翻弄(ほんろう)され続けてきた。

「原発事故があってすぐの3月15日、16日は双葉郡から飯舘村に避難してきた住民の方々を婦人会のみんなで炊き出しで振る舞ってあげてました。もちろん屋外で。子供たちもそばで雪合戦をして遊んでいましたね。今から考えれば、その2日間は飯舘村の放射線量が最も高かったんです。確かそのひと月後に、15日の線量が実は、村役場のモニタリングポストで毎時44.7マイクロシーベルトだったと公表されたんです。それを知らされたときは、怒りとかじゃなくて、ただただ生きた心地がしなかった。子供たちはマスクもしないで雪合戦をしていたんだから」

 それでも行政からは、「安全」のふた文字しか出てこなかった。

「計画的避難地区に指定される前日まで、私たちは『飯舘村にいても安全だ』と言われ続けていました。村長や村役場の人たちが県外から放射能の専門家の先生方を連れてきては、説明会で私たちにそう言い続けていたんです。計画的避難区域に指定された日から、村は静かになった。普段なら外でみんな遊んで、子供の声が聞こえてくるけどね、それがぱったり消えてしまったんです」

 結局、高山さん一家が避難したのは5月末のことだった。2ヵ月半もの間、放射能を浴び続けていたのだ。子供の内部被曝を心配した高山さんは、茨城県まで行き内部被曝の検査を子供に受けさせた。ところが……。

「検査の結果、『ただちに健康被害はないから大丈夫』と先生に言われたけど、半信半疑だった。なぜって、避難先で役場の人たちが原発事故のすぐ後に家族を村の外へ逃がしていたと聞いてしまったものだから、もうお偉いさんたちの言うことは何も信じられなくなっていたんです」

 7月には、現在も住む飯野町の仮設住宅に移った。4畳半ふた間と6畳の部屋で、子供ふたりと両親の5人で生活している。

「夫は『狭いから』と飯舘に残りながら、南相馬で除染の仕事をしています。ここまで騙(だま)されて、これだけ迷惑を被(こうむ)って、なんで私の夫が国や東電のために働かなきゃいけないの!って思うけど、これが現実なんです。東電からの賠償金だけでは家族を食べさせてはいけないんです」

 東電からは100万円が賠償金の仮払金として支払われたというのだが、このお金にはあまり手を付けられないという。

「東電からもらったお金には、『使った分は領収書を提出すること』とか、『東電が認めた物以外には使えない』『使わなかった仮払金は返還すること』なんて条件がついてるんです。だから、実際に買ったものといえば、子供の衣料品と布団と雪かき用のスコップくらい。日常生活にかかる、ガス代、水道代、電気代、食費は東電が認めてくれません。飯舘にいる頃は、山の湧き水や地下水を流しっぱなしで使っていたし、水道代なんて払ったことなかった。畑に行けば野菜がとれるし、田んぼには米もある。こたつは炭で暖めていたし、お風呂も薪(まき)で燃やしていたし……。仮設のお風呂は追いだきができないから冷たくてね、家族の誰かが入るたびにお湯を注ぎ足すから水道代だけで1万円以上かかります。はっきり言って、こんな状況が1年も続いているから、ストレスばかりがたまって、体は大丈夫だけど頭がおかしくなりそうです」

 高山さんは最後に、自分が生まれ育った飯舘村に対する今の思いを率直に語ってくれた。

「菅野(典雄、飯舘村)村長は帰村だ、除染だって張り切っているけど、正直、あの村には帰りたくない。帰りたいけど、帰れないだろうって思っています。村全部を除染するなんて無理だろうし、国や役場が『除染が完了して安全になりました』と言っても、絶対に信じられないと思うから。でも母は最近よく言います。『ここで死ぬのは嫌だ。村さ帰って死にでぇ』と……」

(取材/頓所直人、興山英雄)

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