学習院大学構内で見つけた富士見坂の痕跡

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しばらく続いたJR御茶ノ水駅界隈を離脱して、今回はちと変わった坂道の紹介でもしてみたいと思います。といってもまあ坂道ですからなにか変なものがでてくるとかそういうわけ派手なことはありませんし、ちまたでは日暮里の富士見坂の富士見話が大きく取り上げているなか、あえて今はもうなくなってしまった(と思われている)坂道について今回はその痕跡を探りに行ってみることにしました。

まず場所ですが、JR目白駅そばにあり現在は学習院大学の敷地内になっている場所にあった坂で、かつては富士見坂とよばれていた坂です。

そして今回、その場所にあったであろう坂のことを取り上げてみようと調べていくうちに色々おもしろいことにぶち当たったというわけです。
とりあえず最近の坂道散歩(調査)の前に僕は必ず古地図を見るようにしています。でも手持ちの古地図本には、ちょうど現在の学習院大学あたりの地図はなく、この時点ではビジュアル的にちょっと確認できずじまいでした。
普通ならここで別の坂でも取り上げようかなと諦めるところなのですが、今回はちょっと気になったので、現在の地図に加えて学習院大学の構内図をいちおう見てみることにしました。そうすると敷地内の南西部になんと「富士見会館」なる建物があるではないですか。
(とりあえずここまでみちくさ記事を読んでくださった方ならピンとくるかとは思いますけど)、“富士見”という名称があればそこには富士見坂の痕跡もあるかもしれないということですね。そして見つけたのが、芭蕉の句碑と富士見茶屋というわけです。もちろんこれらは現在の学習院構内に今もあるらしいとのこと。なので“富士見茶屋”という場所があったとすればまさにそこから富士山を眺めることができたわけで、さらにそこに“芭蕉の句碑”があったとすれば、芭蕉が訪れるほどの景勝地でもあり大昔からある場所=道と考えられるわけですね。
そんなわけでとりあえず学習院大学に行ってみることにしました。

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写真1


現地では予想したとおり富士見会館なる名前の校舎の近くに写真1のように、芭蕉の句碑がかなりしっかりとした形で保存されていました。調べはじめた当初はこんな具合に残されているなんてこれっぽっちも考えてなかったので、この場所にきた時はやっぱり驚きました。
いちおう、案内板に書かれていることを抜粋しておきますけど、『文化7年(1810年)に雑司ケ谷の俳人金子直徳(俳号は宗周)が建てたもので、「目にかかる時や殊更五月富士」の句が刻まれている』と書かれてありました。

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写真2


そして現地では、富士見茶屋ってどこ?と探すまでもなく芭蕉の句碑のすぐそばにこのような案内板があり、説明にもあるとおり、この句碑があるあたりがまさにかつての富士見茶屋があった場所だったそうです。(写真2)
ということでやっぱりここから昔は富士山が見えていたというわけですね。

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写真3


それで、現在のこの場所はどうなっているのかといえば、写真3のような様子でした。
写真でいえば、右上のほうに芭蕉の句碑があり、ちょっと見えにくいですが、写真右のほうに写真2の案内板プレートがあるというレイアウトです。

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写真4


そしてここに富士見茶屋が昔あったことは、ここが高台になっていたということでもあるはずなので、この富士見茶屋跡から現在の地図を見ながら富士山がある方向をみてました。(写真4)
もう見た感じでも正面に見えている雑木林のあたりが手前から奥へと下っている様子がわかりますが、現地ではここから下り傾斜になっていて、このまま学習院の敷地境界まで下っていくという地形になっていました。
(ちなみに手前の案内プレートは写真2とは別のもので「富士見茶屋跡」についての説明が書かれていたのですが、内容は写真2の案内プレートの一部抜粋(同じ内容)だったのでここではのせませんのであしからず。)

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写真5


すこし下って富士見茶屋跡の場所を下から眺めるとこんな感じです。(写真5)
道というよりどこかの山の登山道といった風情の散策路でした。
でも高低差はわかりやすいですね。

記事23saka7
写真6


またすぐ近くの散策路の様子も写真に納めてみました。(写真6)
手前が富士見茶屋側で、奥に下る形で、散策路のちょうど軸線がちょうど富士山方向なので、実はこのあたりがかつての富士見坂なのかもしれないですが、ちょっと確証はできませんでした。

ただ「高田町誌」という古い資料に、『下高田の山の手なる富士見台に富士見た茶屋珍々亭と云ふのがあった。晴天の時は富士山が能く見え、眼下には農田を眺望し、十里の風光一眸に収まり其景筆舌に尽し難きものあり・・・』とあり、かつてはここから富士山が見えたということはやっぱり確実なようですね。

そして、そういう資料は文章だけでなく実は風景画としても残されていて、そのきわめつけは、初代歌川広重の描いた「雑司ケ谷不二見茶屋」ですかね。(この絵のことは写真2の案内板の説明でもちらりと出てきてます。)

記事23saka8
雑司ケ谷不二見茶屋


昔はこの場所からもこんなにはっきりと富士山みえていたようです。
かつての富士見坂は絵の女性の奥のほうから下る坂道だったのかもしれないですが、まあかなりデフォルメされてもいると思いますので、これくらいの高低差があったんだなあというくらいで想像しておくのがよいかもしれないですね。
あとこの風景画みながら、「高田町誌」のさっきの文読みなおすとあらためて想像しやすいかもですね。
あと絵のタイトルでは「不二見茶屋」となっていますが、この富士見坂の別名が「不二見坂」なのでおそらくそういうことなのだと思われます。


住所
豊島区目白1




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