街路灯に遊里の名を復活させた町(「吉原」「屋仁川」)

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 近年、歴史に根ざした「町づくり」が盛んに進められていますが、遊廓などの「負の遺産」とも言える歴史は、町づくりに活用されることはほとんどありませんでした。東京都台東区千束4丁目一帯は、かつて”江戸の華”とうたわれた吉原遊廓があった場所(現在はソープランド街)です。 周知のとおり、吉原遊廓は、元和3年(1617年)に、葦(よし)が繁茂する湿地を埋め立ててつくられたことから吉原と命名されました。その後、明暦3年(1657年)にこの地に移転され、昭和33年(1958年)に売春防止法が施行されるまでの約300年間、遊里としての歴史を刻みました。


 この歴史ある場所で、2007年、吉原開場350年を記念したイベント「花魁(おいらん)ふぇすた」の開 催が企画され、このとき、地元の町会の手によって街路灯が設置されました。街路灯は、かつての吉原大門の門構えをイメージしてつくられ、千束4丁目の町並みに江戸風情が復活しました。残念ながら、肝心の「花魁(おいらん)ふぇすた」の方は、警視庁浅草署の「暴力団の資金源にもなっているソープランド街でのイベントに、道路使用許可は出せない」との判断により中止となってしまい、こういった試みには賛否両論あることが解りました(東京新聞(2007.11.9 夕刊)。



 同様の遊里の名を復活させた「町づくり」は、鹿児島県奄美市名瀬でも行われました。2010年11月、名瀬の屋仁川通りにピンク色のアーチが設置され、「やんご生誕100年祭『大やんご祭り』」が開催されました。ア−チのピンクの部分の右下には、「やんご」生誕100年記念」と書かれています。
 「ヤンゴー」というのは、「屋仁川」の方言読みで、もとは川の名前でした。名瀬の料理屋は、はじめは町の中心部にありましたが、料理屋が町の中にあるのは風紀上よくないという理由で、今から100年前の明治44年(1911年)、屋仁川通りへの移転通達が出されました。それ以来、酌婦のいる料亭街のことを奄美では「ヤンゴー」と呼ぶようになり、島南部の古仁屋などにも「屋仁川(ヤンゴ ー)」ができました。
 「ヤンゴー」は、奄美の旅人の憩いの場所として長い間愛されてきた遊廓の呼び名でしたが、100年後に、この遊里の名が名瀬の歓楽街のアーチに復活しました。



 以上のように、昭和33年(1958年)の売春防止法の施行後50年以上が経過し、遊里のことは人々の記憶から忘れさられようとしていますが、「吉原」、「屋仁川」においては、かつての遊里の名を復活させ、江戸や明治・大正の文化を後世に伝えようとする町づくりが試みられています。






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