石原さんも吉本さんも原子力が大好き!?

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「人間だけが持つ英知の所産である原子力の活用を一度の事故で否定するのは、一見理念的なことに見えるが実はひ弱なセンチメントに駆られた野蛮な行為でしかありはしない」。これは、2011年2月6日付の産経新聞に掲載された石原慎太郎東京都知事の発言だが、多くの問題を含んでいるのでくわしく検討してみよう。

まず、石原さんは「人間はさまざまな内的な衝動によって行動を起こす」として、そのネガティブな事例としてオウム真理教や魔女狩りの狂気を取り上げる。この狂気は「独善排他的で時に有害」であり、狂気の「当事者たちはそれがある種の理念に依るものゆえに、理の通ったものと確信してやまない」。

理念を逸脱して、人を狂気へと導くものは「情念(センチメント)」であり、「それは理性をも越えて優に人間を左右してしまうもの」だと石原さんは言う。そして、「その最たる現象は恋愛」だと指摘した上で、昨年12月に発生した長崎ストーカー殺人事件の異常さを紹介する。ここまでは、非常に真っ当なことを仰っていると思う。

だが、問題はここからだ。「福島の原発事故以来かまびすしい原発廃止論の根拠なるものの多くの部分が放射線への恐怖というセンチメントに発していることの危うさ」と述べて、オウム真理教や恋愛、そして原発廃止論を「狂気」と「センチメント」という枠でくくって同列に並べる。くわえて、原発を「文明を支える要因」と位置付けた上で、それを否定することは「軽率を越えて危険な話だ」と言う。

発言の締めには、筆者がかつて「老害」と指摘した吉本隆明さんの「(筆者注:反原発や脱原発が)人類が進歩することによって文明を築いてきたという近代の考え方を否定するものだ。人間が猿に戻ると言うこと―」という発言を引用し、「原子力の活用を一度の事故で否定するのは」「ひ弱なセンチメントに駆られた野蛮な行為でしかありはしない」と断言している。

さて、この発言の何が問題なのか。第一に、福島第1原発事故は未だに収束しておらず、放射能の拡散により生活に深刻な影響を受けている人が数多く存在する。そんな中で、こうした「反原発・脱原発=野蛮」という主旨の発言を堂々としてしまうことに石原さんのデリカシーのなさを感じる。

第二に、原発廃止論者を「センチメントに駆られ」「軽率を越えて野蛮」な人びとだと決めつけているが、そのセンチメントは、原子力に異常な信頼と希望を抱く石原さんの理念を駆動させているものであるようにも読める。石原さんが、魔女を狩るのと同じノリで原発廃止論者を狩ろうとしているように思えるのは筆者だけであろうか。

第三に、話のすり替えが目立つ。「原発」という言葉を極力使わず、「原子力」という言葉を巧妙に使う。原発で事故は起きたが、だからといって「人知の所産」である原子力を否定するのは野蛮だ。事故は「原発当事者の杜撰さこそに欠陥があ」り、原子力そのものを批判されるいわれはない、と石原さんは述べる。

つまり、原発事故では原子力の使い方をまちがえただけであり、まともな使い方をすれば原子力はもっと有効に活用できると言いたいのであろう。しかしそれを言うなら、まだうまく使えそうもないものを暫定的に使い出し、その結果として原発事故が起きてしまったことの落とし前は一体どうなるのだろう。百歩譲って、石原さんの言うように原子力が「豊かな生活を支えるエネルギー」だと仮定しても、それを使えこなせないうちは使用を止めておくことこそ、人類がこれまでの経験で得た「人知の所産」なのではないか。

発言を読み進めるにつれ、石原さんは反左翼のセンチメントに陥っているのではないか、と感じた。以前、反原発運動は左翼の人びとが主導し、どちらかといえば実質的な原発停止を求めるよりも反体制のイデオロギーの一貫として反原発が使われていたような節がある。だが、福島第1原発の事故以降、反体制イデオロギーとしての反原発は逆に衰退し、実質的に反原発・脱原発を求める運動が盛りあがってきたと筆者は見ている。

もし左翼嫌いというセンチメントの延長に今回のような原子力を擁護する発言があるのだとすれば、石原さんは時代を退歩しているとしか言いようがない。吉本さんに続く、第二の老害の登場である。こういうことを堂々と発言するのは、放射能の被害でふるさとを余儀なく去らざるを得なくなった多くの人びとが、まともな生活を送れるようになってからでも遅くはない。

(谷川 茂)