甚大な津波被害を受けた宮城県石巻市に、“奇跡の避難所”があった。自らも被災者ながら、支援活動を続けた人たち。彼らを動かした力に迫る

写真拡大 (全2枚)

■まず、人間らしい生活を取り戻そう

 宮城県石巻市は、東日本大震災の津波による被害で亡くなった人が最も多い街である。その石巻市にあって、後に“奇跡の避難所”と言われるようになる避難所があった。石巻市勤労者余暇活用センター「明友館」である。

 明友館には、地震直後から近所の住民が避難を始めていた。それから40分後、津波が襲う。ヘドロを含む真っ黒な水は、明友館にも流れ込み1階の天井近くまで迫った。明友館の周辺は、翌日になっても引かない真っ黒な水、その下には20cmほども堆積したヘドロ、そして押し流された家の残骸や車に囲まれ、避難してきた136人は、もはやどこへ行くこともできなかった。

 行制指定の避難所には市民の生命を守るために、いち早く市の職員やボランティア団体が入り救援活動の指揮を執った。しかし、指定避難所ではない明友館では、住民それぞれが助け合いながら避難生活を送るしか、生き残るすべはなかった。そして、自主避難所・明友館は誕生した。

 明友館がなぜ“奇跡の避難所”と呼ばれるようになったのか。そこには、大きくふたつの理由がある。まず、避難民136人が事故や大きなケガもなく、また、さしたるもめ事もないままに避難生活を送ったこと。明確なルールはなく、酒やたばこも自由、住民の生活空間を仕切るダンボールなどないにもかかわらず……それはなぜか。

 明友館の職員として震災後も明友館に残り、班長として尽力した糸数博氏(33歳)がこう話す。

「震災後には、水も止まってしまいトイレが流れなくなりました。2日後には、便器にうんこがたまってしまって。これは人間の生活じゃないなと思いました。それで、試しに外から泥水をくんできて流してみたら、流れたんですよ」

 その翌朝、明友館で最初で最後となる避難民全員を集めた会議が開かれた。その場で、糸数氏は明友館の唯一のルールを発表した。

「うんこをしたら水で流す」

 糸数氏はこうぶち上げた後、こんな話をしている。

「人間らしい生活を取り戻すことを目標にやっていきませんか」

 被災地という極限の状態で、自らを見失いそうになっていた避難民たちはこの言葉に目覚めた。この日を境に避難民は自らが、己の役割を見極め自主的に動き出した。

■困っている人を第一に支援はまだまだ続く

 もうひとつの奇跡は、避難所の副班長に任命され、その後、みんなからリーダーと呼ばれるようになった千葉恵弘氏(44歳)によってもたらされた。

 千葉氏には、全国に数多くの仲間がいた。震災後から彼の安否を気遣うメールが寄せられていた。

「最初に連絡を取ったのは、全国のハーレー乗りのカリスマで成田君という、もう二十数年来の仲間。彼も仙台出身で、東京から支援活動を開始していた。彼には『とにかく電池と燃料が足りない』と話しました」(千葉氏)

 その2日後、手に入りづらい状況にもかかわらず、400リットルものガソリンが明友館に届けられた。成田市の手配で新潟のハーレー乗りが、持ってきたのだ。その後、彼ら以外にも数多くの支援者が訪れ、大量に物資を運び込んでいった。そこから、明友館は避難所から“支援する避難所”となっていく。行政の手の届かない小さな避難所や、自衛隊も見過ごす被災集落へと、被災者自らが軽トラックやバイクを駆って救援物資を運び出したのだ。その輪は、石巻を飛び出し三陸全体まで広がっていった。

「もう3月中には支援を始めていました。まだ、明友館の生活も十分ではなかったけど、食べる物がなんとかなったからね。困っている人がそこにいるんだから、助けんのは当たり前でしょ」(千葉氏)

 ほかの避難所では、例えば100人の避難民に対して、50人分の食料では不平等になるから配れないといったことが日常的に起きていたときに、明友館は困っている人のことを第一に考え活動していた。