2002年3月22日、MGMグランドガーデンアリーナ。マッハの控え室の模様を取材したく、僕は中尾受太郎のセコンドとしてネヴァダ州アスレチックコミッションにセコンドライセンスを申請、年間50ドルほど支払い、無事バックステージに入ることができた。思えば良い時代だった。

写真拡大

UFC世界王座に日本人が一番近づいた日は、2002年3月22日だと今でも思っている。

人によっては、その翌年の2月28日に宇野薫が、BJ・ペンと世界ライト級王座決定戦を行った試合の方が、より世界に近かったという意見を持っているかもしれない。

確かに宇野とBJの試合は、ドローだった。ただ、事前の期待値の高さでいえば、桜井マッハ速人がマット・ヒューズの持つUFC世界ウェルター級王座に挑戦した試合の方が、すっと高かったことは間違いない。

2002年8月にアンデウソン・シウバに敗れ、修斗世界ミドル級(※76キロ)王座を失ったものの、この時点でマッハの通算戦績は14勝1敗2分というもの。

リング外の不摂生が体重増加につながり、コンディションの悪化が目立つようになっていたマッハだが、UFC初陣では、これまでの失敗を十分に生かし、計量当日の朝に300グラム・オーバーというキャリア最高のコンディションを誇っていた。

MMAでこそ、初の海外でのファイトも、マッハはアブダビコンバットや道着着用総合=ゴールデン・トロフィーなど、中東やフランスで戦った経験があり、決して海外遠征を苦手にしていたわけではない。

修斗王座を失った直後に、ズッファから前UFC世界ウェルター級王座への挑戦をオファーされ、体調不良で固辞するも、来るべく日に備え、ラスベガスに大会の視察も行った。そのマッハが断ったことで、タイトル挑戦権が回ってきたのが、彼の挑戦を受けることになるマット・ヒューズだった。

マッハ戦当時、ヒューズの戦績は30勝3敗。抜群の勝率を誇っていたが、対戦相手の多くが中西部の人材育成大会=エクストリーム・チャレンジでの無名ファイターで、デニス・ホールマンやジョゼ・ランジ・ペレに敗れている。より世界の強豪と手を合わせていたマッハの経験が、王者の経験値を上回ると見られていた。

レスリング出身のヒューズがテイクダウンからパウンドを主体のファイターなのに対し、マッハは打・投・極、全ての要素でバランスのとれた総合格闘家だ。引き出しの多さは比較にならない、そう修斗関係者やファンは王座奪取に自信を持っていた。

そんなマッハ陣営が朝食を取る間に、ソレは起こってしまった。

読書をしている最中、姿勢を変えた瞬間、マッハは腰に痛みを感じた。朝食を終えたセコンド達は「筋肉が硬直している」という判断で、ウォーキングで体を温めようと散歩に出たが、この時には一人起き上がることもできない状態に陥っていた。

当然、彼の腰の負傷には箝口令が引かれた。マスコミでも、その事実を知る者は僕以外に、カメラマンの巨匠以外いなかった。迎えた公開計量、減量が順調だったため、体重自体は問題なかったが、歩くこともままならないマッハ。スポーツウェアや靴下の脱着をヒューズ陣営の前で行う必要があり、彼はかつてないほど厳しい表情を浮かべていた。

その様子を見て、「緊張しすぎ」という声があがり、無茶な減量をしたという無責任な憶測が早速、飛び交うこととなった。

試合当日、ドラッグチェックに引っかかる可能性も頭によぎったが、午後6時前の会場入りまでに、1日の使用限度の6度に渡り、座薬を投与。マッハは不死身のエレキマンをBGMに、「殺されるかも」という覚悟を持って、オクタゴンに向かった。

痛み止めの効果を望めるのは、1Rのみ。テイクダウンこそ許したが、マッハは得意のオーバーフックからのスイープや腕十字、三角絞めを仕掛けた。そして、これらの技を極め切れなかった時点で、事実上、勝負は決していた。2R以降の13分と1秒間、本当にマッハはよく戦った。皆の夢を背負って、左クロスを当て、スラム気味の投げにも屈しなかった。

勝負は当然として、歴史の変遷でも、『もし』や『仮に』という言葉は禁句だと理解している。理解しているけど、あの時、ぎっくり腰になっていなければ――、マッハは日本人初のUFC世界王者になっていたと信じている。

僕は、今も2002年3月22日に経験していたはずの、歓喜の瞬間をずっと追い求めているのもしれない。
元記事はコチラ