「ハイサワー」誕生への過酷な道のり

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 日本に初めて海外製の清涼飲料が持ち込まれたのは、1853年にペリーが浦賀に寄港したときだといわれています。幕末の役人を黒船の中で接待したときにペリーが出したのが「レモネード」。後のラムネの原型になった飲み物です。ラムネは炭酸の清涼飲料として人気をあつめましたが、ラムネが売れるのは夏限定。冬になるとあまり売れない季節限定の商品でした。

 そして1961年、時代は高度成長期。飲料業界においてもアメリカからコカ・コーラやペプシコーラが日本市場に参入してきました。特にコカ・コーラ社は自動販売機を次々と設置し、コマーシャルを放送して一気にシェアを広げていきました。

 当時、ラムネの製造を行う工場を経営していた博水社の社長、田中専一さんは、ラムネが夏にしか売れない商品であることや海外企業から受ける影響を考えて、ラムネに変わる商品の開発に取り組み始めます。
 「季節を問わず飲まれるものは何か?」。田中さんは、冬に売上が落ちるのは当然という清涼飲料業界の常識と間逆の発想で開発に臨みました。
 年中変わらず飲まれるものの代表の一つといえば、アルコール類です。お酒を造る機械が博水社にはなかったため、飲料製造機で造ることができる「お酒(アルコール)」に似た味の清涼飲料水、すなわちノンアルコールビールの開発をすることになったのです。

 今でこそノンアルコールビールは何種類もありますが、今から30年以上前の当時、知識も指導者もない状況での開発は無謀なものでした。専門の研究員がいるわけでもなく、日中は工場の仕事で手一杯ですから、試作の作業はもっぱら深夜になってからです。ゼロから作られるいくつもの試作品。味見はもっぱら工場の社員たちでした。そうして実に6年もの歳月をかけて、博水社オリジナルのノンアルコールビールは完成したのです。
 しかしその矢先、商品に使うつもりだったホップのエッセンスを生産していた海外原料製造メーカーが倒産してしまいます。代替品の入手も不可能という状況で、結局、博水社のノンアルコールビールの発売は頓挫してしまったのです。

 次の転機が訪れた1975年。家族旅行先のアメリカで見たものは、様々なカクテルを気軽に楽しむ人々の姿でした。色とりどりのフルーティなお酒。たっぷりの氷を入れて、炭酸がグラスの中でピチピチ跳ねる華やかさ。それを見た田中専一さんは、「ビール味にこだわることはない、新しい日本のカクテルを作ろう」と思いを新たに、お酒を割るための飲料(割り材)を造ろうとしたのです。

 そして1980年、日本初の焼酎割用炭酸飲料「ハイサワー(商標登録:輩サワー)」を完成させました。材料はイタリアのシシリー島産の最高級のレモン。収穫したその日のうちに、リーマ式(レモンの中央部分だけを搾る)で、一番絞りだけを贅沢に使用します。
 当時社長で、商品開発を担当していた田中専一さんは、「自分自身が心底旨いと思うものを作らなくちゃダメなんだ」という信念を持って開発に臨み、博水社初代創業者である田中武雄さんも、「他人様の口に入るものには責任がある」という思いを持って会社を経営してきました。

 今でこそ割り材は身近な存在になりましたが、ハイサワーの誕生までにはこんな苦労や経緯がありました。

参考:『そうだ、私は社長なんだ!! ― 小さな会社、酒とナミダの奮闘記』(田中秀子/著 TBSサービス/刊)

(Podcast番組「新刊ラジオ第2部@プレミアム」今週のスゴい人のコーナーより)



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