『千日の瑠璃』49日目--私は弱音だ。(丸山健二小説連載)

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私は弱音だ。

不治の病に冒された子を持つ母親の狭苦しい胸のうちを、日に幾度となく過る弱音だ。彼女が眼にもとまらぬ早さで操る旧式のレジスターの音に合せて勢いよく飛び出した私は、まほろ町で一番古いスーパーマーケットの店内を駆け巡る。そして、憫笑の間隙を縫って突き進み、親身になって私の話に耳を傾けてくれそうな相手を、あるいは、私などただ恥じ入るしかないほどのもっと凄い悲劇を背負っていそうな母親を、懸命に捜し回る。

しかしどの客も、しっかりと財布を握りしめてまずまずの幸福の領域に身を置いており、生鮮食品を品定めする鋭い眼ざしは、きょうを生きることに堪能して、きらきらと輝いている。やむなく私は彼女のもとへ引き返し、口に任せて気休めを言う。たしかに言葉や表情には出していないが、実際にはどの母親も慟哭に値する悲しみに打ちひしがれているに違いないのだ、とそう言ってやる。私が何を言ったところで彼女の心は騒ぐばかりだ。わが子に対する愛情の偏頗のない配分、そんな気遣いはとっくに吹き飛んでしまっている。

やがて彼女は厭な予感に肩を叩かれ、後ろを振り返る。彼女は、店の内と外を仕切る分厚い板ガラスにべったりと歪んだ顔面を押しつけ、軟体動物のように身をくねらせている長男をまともに見てしまう。早くどうにかしろ、と店長が彼女に眼で告げている。私は生唾といっしょに呑み下される。
(11・18・金)

丸山健二×ガジェット通信