『千日の瑠璃』43日目--私は蟷螂だ。(丸山健二小説連載)

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私は蟷螂だ。

秋もそろそろ終りに近づいているというのに、まだ死ねないでいる、息も絶え絶えの蟷螂だ。春から夏にかけての私は、それはもう我ながら惚れ惚れとするほど華麗な示威運動を、うたかた湖周辺で繰り広げたものだった。ところが、交尾に足る相手はおろか、仄かな恋情を寄せられる相手にすら一度も出くわさなかった。その代り、さまざまな天敵に襲われて命からがら逃げ出し、一難去ってまた一難という経験もしなくてすんだ。

今にして思えば、要するに私はこの世をただ生きただけのことだった。ただ生きているだけで自足の心境に達することができる卜ノサマバッタが、私を嗤った。こんな日々はもうたくさんだと私は思った。そして、このあたりで自ら幕を引こうと決めた。しかし時すでに遅く、傷みの激しい羽をいくら打ち振っても、交通量の多い道路や、蛇でもひと呑みにするでかい岩魚がうようよしている渓流へ飛んで行くことはできなかった。湖畔の遊歩道まで這って出るのが精いっぱいだった。

私としては充分にタイミングを計って砂利道へ飛び出したつもりだった。だが、失敗に終った。その少年の歩き方がもっとまともだったなら、せめて酔っ払い程度であってくれたなら、今頃私はきっとペしゃんこに押し潰されて、無へと立ち返っていたはずだった。少年のでたらめな足音は、遠ざかるにつれて、けらけらという笑声に変っていった。
(11・12・土)

丸山健二×ガジェット通信