お寺だって死ぬのだ

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今回は新宿区を歩こう。神楽坂は繁華街だが、路地を一本入るとどことなく田舎の気配がする。おしゃれな人々の行き交うすぐ隣に、こんな地味寺が。正蔵院(天台宗)。広い境内の奥にひっそりと建物がある。昔は境内いっぱいに本堂が建っていたはずだ。しかしこのあたりは戦争で焼け野原になっている。戦後はお寺を復興させるのが精いっぱいで、昔の姿に戻すことはできなかったのだろう。でも、いい“顔”していると思いませんか?


もともと、新宿は江戸郊外、甲州街道の宿場町。内藤のお殿様の御屋敷横にできた新しい宿場町ということで「内藤新宿」と呼ばれた。つまり昔は“東京”でさえなかったのだ。
江戸時代、甲州街道の周辺は山あり谷あり、複雑な地形だった。だから新宿区は坂も多い。東京人はその坂の一つ一つに名前をつけている。土地を愛していたのだなと思う。
東大久保の「山吹坂」は、狩りに出て雨に降られた太田道灌が、簑を借りようとした農家の少女から山吹の花を出され、その意味がわからなかったという、あの話にちなんでいる。落語の「道灌」。江戸川柳でいえば「山吹の花だがなぜと太田言い」。詳細は寄席へ行くか、ものの本で調べてください。
私は知らなかったのだが少女は「紅皿」といい、太田道灌に仕え、道灌の死後、尼となってこの地に住み、死後葬られたという。今、は大聖院(天台寺門宗)という地味寺が立っている。


恐らくは戦後に建った簡素な建物だが、どことなく清楚な感じがする。このお寺は、江戸時代初期からの古文書も所蔵している。また、お不動産を祀っている。境内には西向天神が同居していて、明治の神仏分離令以前のお寺の姿もうかがえる。


そして、境内には太田道灌に歌の道を教えた「紅皿」の墓も。


青石を使った「板碑」という墓。中世の関東で、武士家を中心に数多く作られた。この話はあくまで伝承だから本当に紅皿の墓かどうかはわからない。しかし喧騒渦巻く都会に、こうした歴史が埋もれているのを知ると、少し心が得をしたような気になる。

新宿には、お寺の名前がついた坂も多い。新宿区東部の住吉町にある「安養寺坂」も坂の途中にお寺があったから付けられた名前だ。安養寺(浄土宗)は、江戸時代初期から江戸富士見坂にあり、明暦2(1656)にここに移ってきた、由緒あるお寺だ。しかし、坂の左右を見渡してもそれらしき建物はない。住宅が入り組んだ中をさんざん探して、見つけたのがこれ。


墓地の手前にある空き地。瓦や石が散乱している。おそらく、ここが安養寺さんだったのだろう。土地の広さから見ても、地味寺だったのは間違いがない。はるばる訪ねあてた人がすでに故人だった、みたいな軽いショックを受けた。時代の荒波を受けてこのお寺は息絶えたのだろう。
もちろん、再興される可能性は大いにあるが、いつまでも変わらないと思いがちなお寺も「死ぬ」ことがある。そのことに改めて思い至った次第。

写真と文/広尾晃「地味寺」アーカイブ運営







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