鍋料理の定番。しゃぶしゃぶ。ポン酢だれやゴマだれにつけてさっぱりと。

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 鍋のほかほかとした湯気が恋しい季節になってきた。

 鍋ものは古くから日本にある料理のように思われるが、その歴史が花開いたのは江戸後期と意外に浅い。湯豆腐やシャモ鍋、ドジョウ鍋――1700年代後半頃から、江戸では七輪や火鉢を用いて鍋を火にかけ、煮ながらにして食べる「小鍋立て」の料理がブームになる。背景には、農村で囲炉裏の鍋ものを取り分けて食べる風習があった。

 明治期になると、牛鍋の流行も一役買って、鍋料理はさらに普及する。牛鍋はご存じ、すき焼きのことである。

 つらつらと鍋の歴史を眺めているうちに、ふと疑問が湧いてきた。

 同じく牛肉を使った「しゃぶしゃぶ」は一体いつ登場したのだろう。

 牛肉の鍋といえば、すき焼きとしゃぶしゃぶが2大巨頭である。醤油と砂糖で味付けしたこってり系のすき焼き。対して、さっと肉を湯にくぐらせてポン酢やごまだれにつけて食べるさっぱり系のしゃぶしゃぶ。

 どっちかを選べと言われたら(そんな機会はまずないと思うが)、私は正直悩む。すき焼きの、茶色く色づいた肉を思い浮かべるだけで、口の中に唾がわいてくる。だが、肉本来の味を堪能するシンプルなしゃぶしゃぶだって捨てがたい。結局はその時の気分でしか選べないんじゃないだろうか。それほど、すき焼きとしゃぶしゃぶは甲乙つけがたい。

 だが、その来歴となるとどうだろう。すき焼きについては、文明開化の象徴だったこと、関西や関東では食べ方が違うことなど、ざっくりとした知識がある。一方、しゃぶしゃぶについてはまったくと言ってよいほど知らない。

 牛肉を使っていることから、明治時代以降に登場した料理であることは間違いない。しかも「しゃぶしゃぶ」という擬音めいたネーミングに、意図的なものを感じる。ならば、この機会にしゃぶしゃぶのルーツを辿ってみることにしよう。

戦後まもなく「牛肉の水だき」誕生

 しゃぶしゃぶの歴史を探ってみると、1人の人物に行き当たる。

 吉田璋也(1898〜1972)。鳥取県出身。医師にして、民藝運動家。

 「民藝」とは「民衆的工芸」を略した言葉で、大正時代末期に興った民藝運動の創始者である柳宗悦らによる造語だ。柳らは民衆が自らの生活のために作った工芸品にこそ美しさがあると説き、それを世に広めようとした。

 吉田璋也は、柳らの考えに賛同し、1949(昭和24)年に「鳥取民藝館(翌年に鳥取民藝美術館と改称)」を設立。陶磁器や木工品など様々な工芸品の指導にあたり、鳥取の地において民藝運動の礎を築いた。

 この吉田こそが、しゃぶしゃぶ誕生のキーパーソンなのだ。

 第2次世界大戦中、吉田は軍医として北京に赴く。そこで出合ったのが、「シュワンヤンロウ(シュワンの字は「さんずいに刷」、ヤンロウは「羊肉」)という鍋料理だった。

 「シュワン」は、すすぐ、ざっと洗うという意味がある。薄切りにした羊肉を湯にサッとくぐらせ、タレにつけて食べる。シュワンヤンロウは、寒い冬に食べる、北京の代表的な鍋料理である。

 終戦後、日本に帰ってきた吉田は、京都に2年ほど住んでいた。その間、京都の祇園にある料理店「十二段家」の2代目主人だった西垣光温にシュワンヤンロウの調理法を教え、メニューの開発にも協力した。

 当時、羊肉は手に入りにくかったため、牛肉で代用。さらに味付けも日本人の口に合うよう、昆布ダシを加え、材料もタレも和風にアレンジした。そうして完成したのが、しゃぶしゃぶの原型「牛肉の水だき」である。1946(昭和21)年の秋、戦後まもない頃のことだった。

 『民藝通信』2号(日本民藝協会、1950年10月3日発行)を見ると、「吉田璋也先生御指導 牛肉水だき料理」という十二段家の広告が掲載されている。売り出しから4年、すでにこの頃には店の看板メニューになっていたことがうかがえる。

源流を辿るとモンゴルに行き着く

 ここでいったん中国に飛び、吉田璋也が食べた「シュワンヤンロウ」とはどんな料理か、しゃぶしゃぶの起源をさらに追ってみたい。

 シュワンヤンロウに用いるのは、火鍋子(フオグオズ)と呼ばれる独特の銅鍋だ。真ん中が煙突状になっており、筒の部分に炭を入れて使う。

 炭火で熱せられた湯の中に、薄く切った羊肉、白菜などの野菜、はるさめ、水餃子をくぐらせる。タレは、芝麻醤(ヂーマージャン)という中華料理におなじみの練りごまのほか、腐乳、醤油、蝦油(シャーユ、小海老の塩辛の上澄み)、ラー油などの調味料を各人が好みで混ぜたものだ。これらを思う存分食べたら、最後は麺で締めくくる。

 今となってはすっかり北京名物のシュワンヤンロウ。だが、そのルーツは、さらにモンゴル(現在の内モンゴル)にまで遡る。

 モンゴルの冬は厳しく、連日氷点下30度に達することもある。一説には、屋外に置いておいてカチンカチンに凍ってしまった羊肉を、なんとか食べようと包丁で薄く削ぎとり、湯に溶かして食べたのがシュワンヤンロウの始まりだという。その後、中国へ移住した回教徒を通じ、北京一帯に普及した。

「しゃぶしゃぶ」の名、大阪のビフテキ専門店で誕生

 遠くモンゴルの地から、大陸を渡って日本に伝わった鍋料理は、やがて「しゃぶしゃぶ」という名前で親しまれるようになる。

 名づけ親は、大阪の「永楽町スエヒロ本店」の先代店主だった三宅忠一だ。店ではビフテキが看板だったが、もっと肉をたくさん食べてもらおうと、十二段家が売り出した「牛肉の水だき」を、自分の店でも取り入れることにした。

 だが、名前にいまいちインパクトがない。何かいい名前はないかと考えていたところ、食べ方がたらいで洗濯物をすすぐさまと似ていることに気づく。ならば、水が踊る「しゃぶしゃぶ」という音はどうか。そう思いついて命名したのが、1952(昭和27)年のことである。後にスエヒロ本店は、「肉のしゃぶしゃぶ」で商標登録をしている。

 1955(昭和30)年には、東京・赤坂にしゃぶしゃぶを中心とした日本料理店「ざくろ」がオープン。関西で人気となったしゃぶしゃぶは、関東進出をはたした。

 これは余談だが、しゃぶしゃぶの名づけ親、三宅忠一は、シュワンヤンロウを日本に伝えた吉田璋也と同じく、民藝運動に参加した1人である。1950年に運動の中心となっていた日本民藝協会と袂を分かち、大阪に日本工芸館を建てている。

 また、関東第1号のざくろも民藝とのつながりが深い。看板やマッチ箱をデザインしているのは、民藝運動の中心的人物の1人であった染色家の芹沢げ陲澄E稿發睫演魂閥颪筺¬演困砲なじみの器で揃えられている。

 柳らの提唱した民藝は、昭和30年代にブームとなる。出自において民藝と深い関わりをもったしゃぶしゃぶもまた、そのブームとともに全国に名が知られていく。

 民藝という日用工芸品の美を推奨した運動が、高級鍋料理とされるしゃぶしゃぶと結びついているというのは、考えてみれば少々皮肉かもしれない。

鳥取で今も食べられる元祖しゃぶしゃぶ料理

 吉田璋也が考案したしゃぶしゃぶは、吉田自ら民藝の実践の場として1962(昭和37)に開いた鳥取の「たくみ割烹」で、現在も食べられる。

 秋に鳥取に旅行した際、たくみ割烹に立ち寄ってみた。

 料理名は、「すすぎ鍋」。シュワンヤンロウの直訳に近い。いちばん安いコース(1人前3990円)を頼む。ちなみに断っておくと、本連載はすべて自腹である。

 まず出てきたのは、小鉢が2品。続いて、銅鍋がガスコンロにセットされ、片口に入ったタレが運ばれてくる。

 タレを見て、あっと思う。上品な感じのする白いごまだれに、ネギとラー油が浮かんでいる。白地にオレンジの丸い水玉。そこにわずかに、大陸の面影を宿している。見た目にも美しい。これが、吉田が辿りついたシュワンヤンロウの日本版だったのか。

 そんな感慨にふけりながら、想像以上に多く盛られた分厚い鳥取牛をシャブ、シャブと湯のなかを往復させる。色が変わるか変わらないかの頃合で鍋から取り出し、ごまだれをたっぷりつけていただく。肉の甘さとごまだれのまろやかさが、口のなかに広がる。ラー油のピリッとした辛さがアクセントになっている。自然に頬がゆるんでしまう味だ。

 気候も風土もまったく違うモンゴルの草原で生まれ、今やいっぱしの和食の顔をしているしゃぶしゃぶ。豚しゃぶ、海鮮しゃぶしゃぶ、レタスしゃぶしゃぶと、新たなしゃぶしゃぶを求めて日本人の貪欲さはとどまることを知らない。

 だが、たまにはルーツを思い出して、ごまだれにラー油を垂らしてみようか――たくみ割烹で、締めの中華麺とデザートの梨を平らげながら、そう思った。


筆者:澁川 祐子




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