『千日の瑠璃』41日目--私は温泉だ。(丸山健二小説連載)

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私は温泉だ。

湯量があまりに少な過ぎて、誰も商売に結びつけられなかった、うつせみ山の麓の温泉だ。谷川に半日掛かりで穴を掘って私を作ったのは、今年の仕事をすべて片づけた、外聞を重んじることなど間違ってもない、四人の農夫だった。素っ裸になったかれらは、身も心も私に委ね、持参した安酒をがぶ呑みし、酔いがまわったところで、「百姓なんてもんはだなあ」といういつもの愚痴をこぼし始め、ついで、「百姓は気楽でいいよ」といういつもの自慢話へと移っていった。

その間私は、かれらの節々の痛みを和らげ、へりくだってさえいれば間違いないという腐り切った性根や、体の芯まで染みついている事大主義を、泥臭い汗といっしょに絞り出してやろうと頑張ってみた。しかし、そううまくはゆかなかった。

かれらが湯あたりして倒れた仲間を担いで帰ったあと、今度は、小説家であることを地元ではほとんど知られていない男が、ふらりと現われた。彼は連れてきたむく犬を私のなかに漬けこんでごしごしと洗いながら、さかんに「汚ねえお湯だなあ」と連発した。そして自分では入ろうとせず、バスタオルにくるんだ犬を抱えて帰って行った。そのあとで、少年世一がやってきた。彼は岩頭の高みに立って小鳥のさえずりにも似た奇声を発すると、やにわに私をめがけて放尿した。かんかんに怒った私はしばらく湯をとめることにした。
(11・10・木)

丸山健二×ガジェット通信