『千日の瑠璃』30日目 私は嫌悪だ。(丸山健二小説連載)

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私は嫌悪だ。

若い妊婦の、この世に向ってばんと張り出した腹に宿る、如何ともし難い嫌悪だ。しかし身籠る前の彼女は、私のようなものとはほとんど縁がない、心延えのいい人だった。それがどういうわけか胎児のめざましい発育に合せて、栄養価の高い食物といっしょに私をどんどん摂取するようになった。私は日毎に膨張し、闇の力をつけてゆく。

そしてきょう、鋭さを増した私は、秋にたゆとう柔らかな光のなかを右へ左へ大きくよろけながら歩いて行く少年の華奢な背中をめがけて、矢のように一直線に飛び出した。しかし、標的がのべつ揺れているために、幾度試みても躱されてしまい、擦り傷ひとつ負わせられなかった。

少年の吹き曝しになっている魂は今、夏の台風で半壊した家屋のまわりを回っていた。諦めた妊婦は、生々しい現実の塊にほかならぬ己れの腹をひと撫ですると、町立病院へ通じる坂道を大儀そうに登って行った。少し登ってふたたび立ちどまった彼女は、風を引き連れて昼となく夜となく町を徘徊する少年を、さも憎々しげにもう一度見やり、重く、低い声で、「あたしの子だったら生かしちゃおかないわ」とそう呟いた。行き場をなくした私は、とりあえず胎児の空っぽの腹のなかへ潜りこんだ。前方にある病院は、死の転帰をとる気配に満ち満ちており、後方の廃屋はというと、少年に暗い未来を約束していた。
(10・30・土)

丸山健二×ガジェット通信