夏の間、近所の小学校から、子供の声がしなくなっていた。
 「ああ、そうか夏休みの時期か」などと考えていたら、ふと、自分が子供の頃に読んだ本が思い起こされた。『トム・ソーヤの冒険』 『西遊記』 『シャーロックホームズ』など、冒険活劇やファンタジー、推理ものをよく読んでいたが、中でも一番夢中になったのが、江戸川乱歩の『少年探偵団/怪人二重面相シリーズ』だった。
 思うに、劇画調の装丁が醸し出す妖しげな雰囲気にあいまって、奇怪な世界への冒険と恐怖が魅力的に感じられたからだろう。

 怖いもの見たさで読み始めた『少年探偵団/怪人二十面相シリーズ』だが、奇妙で妖しい世界に安心して浸る事が出来たのは、一重に明智小五郎という名探偵が存在したからに他ならない。
 颯爽と登場し、危機的状況から救ってくれる 名探偵―黒い背広、黒い外套、黒のソフト帽に身を包んだダンディーで紳士的な”明智小五郎”のイメージは、乱歩作品との出会いが『少年探偵団/怪人二十面相シリーズ』である人であれば、誰もが同じものを共有しているのではないだろうか。

 『D坂の殺人事件』(江戸川乱歩著/東京創元社)は、その明智小五郎が初めて登場する作品であり、これを表題作とする江戸川乱歩の初期作品 全十編からなる短編集である。

 表題作である『D坂の殺人事件』は、語り手である<私>と若かりし頃の<明智>の二人の青年が、D坂で起きた殺人事件を それぞれの推察の元に追求・解明していくというストーリーであるが、初登場時の明智小五郎は
<髪の毛は長く、モジャモジャともつれ合い、その髪の毛を指で引っ掻き回す癖を持ち>
<服装には気を使わずいつも木綿の着物によれよれの兵児帯を締めている>
という風貌を持ち、
<これという職業を持たぬ一種の遊民で 煙草屋の二階に寄宿をしている>
<犯罪や探偵について、なみなみならぬ興味と、おそるべき豊富な知識を持っている>
という青年であった。

 そこには紳士然たる明智の姿は見当たらず、相対するものは二十面相のようにファンタジックで創作的な要素を含んだ奇怪なものではない。いかにも探偵小説らしく 「密室」の「殺人事件」だ。

 他九篇の収録作品においても プロバビリティー(可能性)の犯罪であったり、公然と人々の目に晒されている狂気であったりと 創られた怪奇ではなく人間の欲望や思い込みから起こりうる犯罪や死が描かれている。そして、それは乱歩自身の言葉である「うつし世は夢 夜の夢こそまこと」そのままに怪奇と官能性に溢れる幻想的な世界として読者を魅了する。
 乱歩ワールドは 「まことである夜の夢」のごとく読者のいる現実世界に取って代わろうと忍び寄るのだ。

 昼間に小学校から子供の声がしなくなったのも、もしかしたら、私自身が「夢のうつし世」から「まことの夜の夢」の世界に迷い込んだからかもしれない、そう思った瞬間、少し背筋が凍りついた。
(ライター/胡桃沢梅子)



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