北千住・南千住

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JR北千住駅を出て少し西に歩くと、常磐線に並行して旧日光街道が南北に走っている。千住宿は、日光街道の最初の宿場町である。旧街道は商店街と化しているが、駅前に大型のショッピング・モールが出店しているというのに、商店街も繁盛していて往来が途切れることはない。旧街道に面した公園に千住宿の高札場が再現されている。 ここから更に北に向かって歩いて行くと、昔の風情を今に伝える横山家住宅に出会う。横山家は屋号を「松屋」といい、江戸時代から続く商家であった。戦前までは紙漉問屋を営んでいたという。母屋は江戸時代後期の建造で、昭和十一年(1936)に改修が加えられている。慶応四年(1868)五月の上野戦争で敗れた彰義隊が敗走する中で斬りつけたと言われる刀創が玄関の柱に残る。

横山家門柱の刀創


 横山家を見たら、ここで踵を返して南に向かう。少し街道から離れるが、東京芸術センターの隣に不動院がある。ここには、芸州藩が建立したという大きな供養塔が残されている。これは戊辰戦争に従軍した芸州藩の軍夫、従軍者のうち、千住近在から参加した戦死者を供養したものである。正面に「南無阿弥陀仏」側面に「芸州」と大書きされている。不動院には、千住宿旅籠屋一同が万延元年(1860)に遊女を弔うために建てた無縁塔などがあるので、これも見ておきたい。

不動院供養塔無縁塔

 北千住が足立区にあるのに対し、南千住の所在は荒川区内である。常磐線で一駅移動して、南千住の駅から徒歩数分で回向院に着く。この地は、かつて小塚原と呼ばれた。小塚原は、罪人の処刑場があった場所で、幕末にも吉田松陰、橋本左内ら多くの有為の士がここで斬首された。回向院の墓地には、この地で処刑された多くの志士たちの墓が乱雑に置かれていたが、数年前に整備された。
 入口に近いところには、桜田門外の変や坂下門外の変、東禅寺事件などの国事犯の墓。更にその奥には、橋本左内や雲井龍雄、中野方蔵らの墓。桜田門外の変の首謀者の一人、関鐡之助の妾で拷問の末獄死した瀧本伊能の墓もある。左内の墓の横には、左内の顕彰碑(撰文重野安繹、篆額渋沢栄一)が建てられている。
 また、安政の大獄の犠牲者、吉田松陰、小林良典、頼三樹三郎らの墓を取り囲むように桜田烈士の墓が並べられている。彼らの大半は、伝馬町で斬首されている。にもかかわらず、ここに墓が置かれたのは、安政の大獄の犠牲者にとって仇を討ってくれた恩人という意味合いだろうか。

佐久良東雄ら幕末の国事犯の墓松陰二十一回猛士墓
(吉田松陰の墓)
橋本景岳之碑

 国道4号線を渡って円通寺に向かう。
 上野での官軍と彰義隊との衝突が終わると、上野山内には二百体を越える彰義隊士の遺体が散乱していた。しかし新政府を憚って誰一人遺体を埋葬しようという者もいなかった。心を痛めた任侠人三河屋幸三郎は、円通寺住職の仏磨和尚と相談して、大総督府に願い出て埋葬許可を得た。現在、上野公園内の彰義隊墓所のある地点で遺骸を荼毘に付して、遺骨を円通寺に持ち帰った。円通寺は、当時公然と賊軍の遺体を埋葬できる唯一の寺となった。本堂前には墓石や旧幕臣ゆかりの石碑がたくさん建てられている。

円通寺死節之墓旧寛永寺黒門

正二位勲一等男爵
大鳥圭介君追弔碑
松平太郎君墓澤太郎左衛門君記念之松




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