都市に秘められた遊女の物語(その1:横浜の遊廓「岩亀楼」の「喜遊」)

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 横浜スタジアムは1978年に完成し、すでに30年以上が経過し、横浜の歴史となっていますが、このスタジアムのある横浜公園は、幕末の開港時に遊廓が置かれた場所でした。 安政6年(1859年)に日米和親条約が締結され横浜が開港されると、幕府は長崎の出島のように異人の行動範囲を制限してしまうことを目論み、現在の横浜 の地に新たな都市を開発しました。そこには、異人たちの要請により異人向けの遊廓の建設が都市計画に盛り込まれ、港崎(みよざき)遊廓が開業しました。最盛時は18軒の妓楼が建ち並びましたが、そのなかでもひときわ立派だったのが岩亀(がんき)楼でした。

 現在、横浜公園には、「岩亀楼」の刻印のある石灯篭が遺構として残されています。港崎遊廓は、7年後の1866年(慶応2年)に火事で全焼し、その後は都市防災の観点から横浜公園となりました。今日も熱戦が繰り広げられている横浜スタジアムは、このような都市の歴史の繋がりのなかで出来上がったといえます。



 岩亀楼については、もう一つ遺構があります。戸部4丁目にある「岩亀稲荷」です。当時、岩亀楼の寮がこの近くにあり、遊女たちが信仰していたお稲荷様が寮内にありました。この界隈は、岩亀(がんき)横丁と名づけられ、現在も「がんき」という名のお寿司屋さんやホテルなどがあります。


 岩亀稲荷を語る上で忘れてならないのが、「喜遊」という遊女の物語です。喜遊は岩亀楼の中でもとりわけ人気のある遊女でした。ペリー艦隊の軍人の一人に、喜遊にどうしても会いたいと思う軍人がいて、軍人は、幕府の役人を通し、岩亀楼の主人に喜遊がその軍人の相手をするよう命じました。しかし喜遊は外国人の相手をす ることを拒み、自ら喉を懐剣で突いて自害しました。幕末から明治維新にいたる歴史の転換期においては、攘夷と開国とで日本人の意見が分裂した時期でしたが、遊女たちの間でも意見が分裂していました。異人を避ける伝統的な美徳が称賛される半面、いわゆる”らしゃめん”と呼ばれた異人の妾が出現し、開国の一面を象徴して いました。



 以上のように現在の横浜の都市には、開港の歴史の中を生き抜いた遊女たちやさまざま人々の物語が込められており、現在の都市の姿の中にその名残をみることができます。





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